偽造ほんわかABCD
夏季休院が終わってすぐ、陣術の講義中に女の人に話しかけられた。二十歳前後のニンゲン族で、おっとりした感じの人だった。
「あなた、シンルちゃんでしょ?」
「えぇ、はい」
今まで、一方的に私の名前を知っていて話しかけて来る人は、例によって私の事を珍しい被検体として見ているような人ばかりだったので、いつもの私ならこの時点でかなり警戒しているのだが、雰囲気のせいか、その女の人にはあまりそういう気持ちが湧かなかった。
その女の人はにっこりと笑い、右手を差し出しながら続ける。
「私、メディっていうの。よろしくね。……一応ここで四年生してるんだけど、最近は研究棟に篭りっ放しかな。シンルちゃんは、まだどこの研究チームにも所属してないんだよね?」
私は差し出された右手を握り返しながら、『はぁ、まぁ』と気のない返事をした。どうやら、よくある勧誘のようだ。
ここ、ハルトゼイネル魔法学院の主たる目的は、第一に学費を払っている生徒達に魔法を教える事、そして第二に、魔法の研究を進める事である。魔法の研究は、学院の者であれば誰でも参加出来る。研究の主体となっているのは教育課程修了後に研究生として残った者達だが、中には講師と二足の草鞋を履いている者もいるし、最初から研究目的で入学した者もいる。
そして、同じ研究目標を掲げる者達が集まって研究チームを作るのだ。学院内には大小合わせておよそ百近くの研究チームがあり、学院側も良い研究成果を挙げるチームや、規模の大きいチームには研究室を優遇したりしている。
最先端の研究に携われるだけでも良い経験になるので、教育課程途中の生徒達の中にも、研究生の手腕を学ぶ目的で研究チームに所属している者はたくさんいる。
しかし、その全てがそれぞれの研究課題達成に向けて日夜研究に明け暮れている、というわけでもなく、中にはサークル感覚のチームや、完全にお遊び目的のチームもたくさんある。
そういった研究チームは訳もなくたくさんのメンバーを欲しがるもので、まだ学院のシステムに疎い新入生すら無差別に勧誘の的にされる。
そして毎年、夢溢れる新入生達の一部は、先輩研究生の生真面目な勧誘文句につられてお遊びチームの一員となってしまう。朱に交わればなんとやら、数年後のその生徒は新入生を同じ言葉で勧誘する事だろう。これはもはや学院の伝統となっている光景だった。
私の気持ちを知ってか知らずか、メディは話を続ける。見た目の印象とは裏腹に、意外と早口ではきはきした口調だった。
「私、まだ卒業前だけど一応チーフやってて、うちのチームは研究室もひとつ持ってるの。基本的な研究内容は陣術の研究なんだけど、確かシンルちゃんは陣術が苦手だったんじゃないかな?だから、研究に関わってみるだけでも良い経験になったりしないかな?」
「いえ、私はまだそういうのには…」
私は、研究チームに所属していない事はともかく、陣術の腕前があまり芳しくない事まで何故か知っているメディに若干の不気味さを覚えながらも、やんわりと勧誘を断ろうとした。卒業前の生徒がチーフをしている研究チームなんて、その時点で怪しすぎる。
「そっか…」
そこでメディは少し俯いて言葉を切った。そこまで熱心に勧誘するつもりはないのだろうか。人が良さそうに見えるだけに、私はなんだか悪い事をしてしまった気がして落ち着かない。
と、メディはもう一度私に向き直り、明るい口調で言った。
「ところでシンルちゃん、勉強場所を見つけるのに苦労してない?」
唐突に話の内容が変わったので、私は面食らう。
確かに、夏季休院が終わってカスカが帰って来たおかげで一旦は片付いていた寮の部屋も以前の通りになり、私の生活圏は二段ベッドの上の段のみに追いやられていた。自分の荷物もそこにまとめてある為、陣術の式図を一枚広げる場所すら無い。学習環境としては最悪だ。
それにしても、メディはなぜこうも私の事を知っているのだろう。私は不気味さを通り越して少し怖いと思い始めた。
「確かに、安心して勉強出来る場所が欲しいなってちょっと思ってます。でも、どうしてそう思ったんですか?」
私は訝しげにメディを見つめてそう言うと、メディは口元に指先を添えて、ちょっと考えるような仕草をしてから答えた。
「寮、相部屋なんでしょ?それに遅くまで図書棟で呪文書を広げてるのもよく見かけるし、それで。…研究チームに入れば、研究室を自由に使っていいよ?……あと、これは遊びの勧誘じゃないからね。私、本気でシンルちゃんの事、チームに欲しいと思ってるの」
メディは語尾を強めて言い、にっこりと笑った。大人びた感じと子供じみた感じを同時に受ける、不思議な笑顔だった。
その勧誘の言葉に私は一度反射的に断りそうになってから、ふと考えてみる。研究とは何の関係のない取り引きだが、もしかすると悪くない条件なのかもしれない。研究チームに入っていれば実験用の触媒等を学院から借りる事も出来る。それを私用に使う事をメディが許してくれるなら、の話だが。
それに何より、私の事をよく観察しているらしいメディ自身にも興味が沸いた。ここまで調べられているのだから、メディの言う通り、遊びの勧誘では無いだろう。
「……今度、一度研究室を見学させてもらっても良いですか?」
私がそう答えると、メディは、わぁ、と小さく歓声をあげて両手を合わせ、またにっこりと笑った。
「じゃあ、私はいつも最後の講義が終わる時間くらいには研究室にいるから、今度来てくれるかな。研究棟の4のйが私の研究室だからね。4のйだよ?覚えた?」
メディはもう一度右手を差し出して、私の手を強く握った。メディの美しい赤毛がふわっと揺れて、なんだか良い香りがした。
「ねぇ、メディさんって知ってますか?四年生で、赤いロングヘアのおっとりしたお嬢様って感じの人」
私は二段ベッドの上の段に座って、足をぶらぶらさせながらユリ先生に聞いた。ユリ先生はカスカの謎のがらくた達を乱暴にどけて床に座っている。いつも通り、カスカはどこかに出かけていて部屋には居ない。
「おー、知ってるぞ。男子生徒にかなり人気がある奴だな。ま、俺には負けるけど」
ユリ先生はよくわからない自慢を混ぜて答える。そう言われてみればメディはいかにも華のある感じでかなりモテそうだ。ユリ先生とはまったく正反対の支持層だろうけれど。
「今日、その人の研究チームに勧誘されたんです。どんなチームか、わかります?」
ユリ先生は自分の自慢話を私に軽く聞き流された事で逆に恥ずかしくなったのか、ばつが悪そうににやけた表情を引っ込めて、答える。
「お前、また面白いのに目をつけられたな。メディのチームは新たな学院の怪談のひとつって言われるくらいおかしなチームだぞ」
また怪談か…と、私は少しうんざりした気持ちになった。やはり、まともな研究チームの勧誘では無かったようだ。
「じゃあ、やっぱり研究チームに入るのはやめておきます。研究室を勉強場所にして良いって言われたんですけど、やっぱりここでなんとか頑張るしかないみたいですね」
私はそう言ってベッドをとんとんと叩き、ため息を吐いた。
「これくらいどけちゃえば良いのになぁ」
ユリ先生は床に散らばるガラクタにでこピンしながらめんどくさそうに言う。
部屋中に散らばるカスカのガラクタを勝手に移動させたりした事でカスカが怒った事は今まで一度も無いけれど、私にとっての問題は、怪しさの漂うカスカのガラクタを触る気にならない事だ。それから、この部屋に入って以来、ずっとこの狭いベッドの上だけで生活してきていたせいか、部屋内のそれ以外の場所はなんだか自分の場所じゃない気がして落ち着かない。
私はまた、深いため息を吐いた。
「っと、ところでさっきの話に戻るけど」
と、ユリ先生は引き続き床のガラクタ達にでこピンを喰らわせながら言う。落ち着きのない人だ。
「『勉強場所にしていい』って、メディがそう言ったならそれって多分、シンルにとってもメディにとっても良い話だと思うぞ。勉強どころか、小規模の実験くらいなら何の気兼ねもなく出来る良い場所になりそうだ。なんたってメディのチームは、メディ一人しか居ないからな」
「メディさん一人?それってどういう事ですか?」
私が思わずベッドから身を乗り出して聞くと、ユリ先生はにやりと笑って、手に持ったガラクタをビシっと私の眼前に掲げた。長い爪と口元に赤色のペイントが施された、趣味の悪い熊のぬいぐるみだ。
「そ、こ、で、さっきの話。学院の怪談だよ、シンル」
ユリ先生は怪談の話を話したくて仕方がないようだ。自分で怪談をひとつ作り出しただけあって、こういう話が好きなのだろうか?
「メディが研究チームを立ち上げたのは、去年の秋、シンルがやってくる少し前頃だったんだ。メディ自身は真面目な生徒で、研究チームを立ち上げたのも、得意の陣術をもっと伸ばしたいからだったんだろうな。だからメディは小規模でも良いから真面目なチームにするつもりだったんだろうが、残念ながらそうはいかなかった。チームにメディのファンの男どもがチームに押しかけてきて、冬の終わり頃には、30人規模のチームに膨れ上がっていたんだ。もちろん、その頃はまだチーム専用の研究室も無かったし、まともに研究が出来る状態じゃない」
「うわぁ、最悪。人気があるのも大変なんですね」
私は思わずメディに同情した。私はそこまでモテた事がないから、いまいち感覚は掴めないが。
「まあ、ここまではよくある話っちゃあよくある話なんだ。面白いのはここから」
ユリ先生はそこまで言うと、立ち上がって部屋を歩き回り、カスカの品々をひょいひょいといくつか拾って床に並べ始めた。
指先サイズの小さい人形が数体と、包帯をした女の子の人形が一体、床に並ぶ。
「女の子の人形がメディさんで、小さい人形がファンの人達ですね」
私はユリ先生の意を察して言った。ユリ先生は満足そうに頷いて、その人形達の隣に水晶の髑髏をどんと置いた。
「で、急に規模が大きくなっちゃったもんだから、今年度の春に学院側がメディの研究チームに研究室をひとつあてがったんだ。はっきり言って、これはかなりの特例。研究チームはごまんとあるし、研究室の数には限りがあるわけだから、研究室を持たないチームもいっぱいあるんだ。まぁ、30人って規模で研究室がないのもおかしいけど、発足して数ヶ月で研究室持ちになるチームなんて滅多にない」
ユリ先生はそう言いながら、メディ人形を持って水晶の髑髏の上に乗せ、ふりふりと揺さぶった。
「メディだけは、研究室を貰えた事を素直に喜んで、必死に研究を進めようとしてたみたいだけど、研究室には毎日メディのファン達が集まって、もう完全にお遊びチーム状態になっちゃったわけだ。
メディはすごく困ったんだろうけど、押しが弱い奴でな。研究する気の無い男たちにも、チームから出て行けとは言えなかった。そんなある日…」
ユリ先生はそこで言葉を切り、メディ人形を水晶の髑髏の上に置いて、先ほどの悪趣味な熊のぬいぐるみを左手に持った。そして右手で熊のぬいぐるみの腕を掴んで、ファン人形に振り下ろす。熊のぬいぐるみの爪がガチリと音を立てて、ファン人形が一体倒れた。
私は思わず、あ、と小さく呻いた。
「ファンの一人が体調不良で寝込んで、そのまま研究チームを抜けてしまった。そしてそれを皮切りに、一人、また一人と……」
ユリ先生は低い声でそう言いながら、熊のぬいぐるみの腕を振り回してファン人形を倒していく。本人はかなり楽しそうな様子だ。
「それで今、メディさん一人なんですね。でもどうしてそんな事に?」
私が冷静な口調で聞くと、ユリ先生は興ざめした、とでも言いたげな眼で私をじろりと見る。
「原因は不明さ!だから怪談なんだ。体調を崩して辞めていったファン達は何も話そうとしない。そのうち、メディが何かの魔法で邪魔なファン達を暗に消していったのだとか、あの研究室は呪われてるとかって噂も出てきて、おかげでメディのチームは新しいメンバーもまったく入らなくなっちゃったのさ。だけど、俺はメディは何もしてないと見てるね。メディは優しい奴なんだ」
私は『面と向かって辞めろと言えないからこそ暗に葬ったのでは?』と一瞬思ったが、メディの笑顔を思い出すと、確かにそんな事は出来ない人のような気もした。
「でも、何で今更私を勧誘してるんでしょう?一人になったなら、自分のしたい研究に好きに打ち込めるような気もするんですが」
「そこで、問題はこれだよ」
ユリ先生はそう言って水晶の髑髏をこんこんと叩いた。
「魔法学院は、たった一人の生徒しか居ない研究チームに研究室を割り当てられるほど部屋は余ってないのさ。このままだと残っても今期いっぱいだろうね。だけど、そこで特待研究生のシンルが居ればだな」
ユリ先生は水晶の髑髏に腰掛けているメディ人形の隣に、先ほどの熊のぬいぐるみを置く。それは私だろうか。その配役は余りにも気に入らない。というか、それではこの怪談の犯人は私という事になってしまうではないか。
「シンルが居れば、多分研究室は存続される。メディがシンルを勧誘した理由はたぶんそこだろう。特待研究生は立場上強いし、シンルは成績も良いからな。あとは期末毎に良い研究内容があがれば言う事無しだが、それはメディが頑張ってくれるだろう」
ユリ先生はそこまで言って、メディ人形と熊のぬいぐるみを両手で持ってぴょんぴょんと跳ねさせた。
「シンルにとっては実験も出来る良い勉強場所。メディにとっては最高の研究環境。邪魔なメンバーも居ない。お互いギブ&テイクが成り立ってると思わないか?」
確かに、それなら私にとって垂涎ものの環境だが、ユリ先生は重大な事をひとつ見落としている。
「ユリ先生、それで私がその謎の熊ちゃんにやられちゃったらどうするんですか」
私がそう言うと、ユリ先生は一瞬ギクりとして、それから、にへら、と表情を崩して私を見る。
「だ、大丈夫大丈夫。死んだ奴はまだ一人も居ないし、悪くて一週間くらい寝込むだけだよ。それに、怪談の正体、知りたくない?」
やはり、この人は怪談の正体が知りたい一心で、私を実験台として扱うつもりだったらしい。
「………。ユリ先生、その考え方はわりとひどいです」
「いやいや、別に人柱とかそんなんじゃないって!それに女の子だったら大丈夫かもしんないじゃん?ずいぶん前の話だし!それにほら!研究チーム名義で研究棟の備品を使ったりも出来るよ!」
人柱とは…。実験台より表現が悪い。
「でも、メディさんは悪い人じゃないと思うし、その環境は確かに魅力的だと思います。一度見学に行ってみて、怪しいところが無かったらメンバーになってみても良いかも」
怪談の事も、気にならないわけではないが、私は先の小人事件を解決出来た事もあって、自ら飛び込んでもどうにかなるような気がしていた。
「だろ!だろ?何かあったら報告しろよ?いやー、楽しみだなー」
ユリ先生は眼を輝かせて言うが、私としては何事も起きない方が幸せだ。
「そっか、聞いちゃったんだね」
翌日、私はさっそくメディの研究室に足を運んだ。研究室は十二畳程の広さだったが、大きな物はワークデスクが二脚と本棚が二架しか無く、きっちりと整理されていてかなり広く見えた。しかし、一時期はここに30人が通っていた事を考えると、ぞっとしない。
メディは既にそこに居て、ワークデスクに座って本を読んでいた。私の姿を認めると、笑顔で出迎えてくれた。
それから、メディは自分一人しか居ない理由の説明を始めようとしたが、私はそれを制して事の経緯はユリ先生に全て聞いた事を話した。
「ごめんね。前の人たちが辞めていった事は私も心配なんだけど、多分シンルちゃんは大丈夫だと思ってたの。女の子だし」
メディはそう言いながら、使っていない方の机から椅子を引っ張り出して自分の机の隣につけて私に手招きした。私が座ると、メディもすぐ隣に座った。
「あ、紅茶飲む?」
メディはそう言いながら机の上に置かれた水筒の口を開いて、水筒の蓋をコップにして注いだ。やや赤みがかった液体はまだ十分に暖かいようで、湯気をあげながら良い香りを広げた。嗅いだ事がある香りだと思ったら、講義の時にメディから香った香りと同じ物だ。
私はただ呆然とその様子を眺めていた。まず、紅茶を飲むとは一言も言っていないし、そもそも私はここにわざわざ紅茶を飲みに来た訳ではない。
メディはコップを私に差し出した所で、私の困惑した表情に気づいたのか、あ、と小声で叫んで眉をひそめ、困ったような顔になった。
「ごめんね。先に注いじゃって。シンルちゃんはミルクティー、ダメだったかな?まあ、ダメなら私が飲むからいっか」
メディはそう言って私の顔を覗き込んで小首を傾げた。
「はぁ、いえ、頂きます」
別に何の強制もされていないのだが、私は何故か少し怖気づいたような心持ちになって答える。
「良かった。はい、どうぞ召し上がれ。ちょっと渋みが強いかもしれないけど、口に合うかな?」
「……」
何の根拠も無い直感なのだが、メディは私にとって永遠に勝てないタイプの人かもしれない。メディの周りだけ独特の時間が流れているというか、なんというか。
そんな事を思いながら淹れられた紅茶を一口飲む。メディの言う通り渋みも感じたが、深いコクと甘みがあって、私の知っているミルクティーの味とは全然違い、予想以上に美味しかった。
茶の葉に何を使っているのか頭の隅で少し気になったが、それを聞くと数時間ほど話されそうな悪寒があったので聞くのは今度にしようと思った。
「……えっと」
私が本題に入ろうとして、メディの方に向き直るとメディはキラキラした瞳で私の様子を見ている。どうやら本題の前に言わなければならない事があるようだ。
「…美味しいです。すごく」
それを聞いた途端、メディは両手の指を胸の前で絡めて喜ぶ。
「わぁ、良かった!毎日水筒に入れてきてるから、欲しい時はいつでも言ってね?」
私は『はい』と言いそうになる気持ちを危うく抑えた。村から出てきて一年、色々な人に出会ったつもりでいたが、ここまでマイペースな人は他にまだ会っていないかもしれない。
いや、ほとんど会話をしていないので判断しづらいが、同居人のカスカもメディと同じくらいマイペースだろうか。
「あの、まだチームに入ると決めた訳ではないです。前の人たちが辞めていった原因も気になるし、そもそもメディさんが私を勧誘した理由って、研究の為じゃなくて研究室存続の為ですよね?」
とにかく、私は何とか自分のペースを取り戻そうと、多少強引にでも話を本筋に戻す事にした。このままでは何もかもうやむやのうちにチームメンバーにされかねない。
メディはそれを聞くと表情を曇らせて、俯きかげんで黙ってしまった。私はなんだかとんでもなく悪い事をしてしまった気がして、硬直してしまった。
「あ、いや、研究室存続の為、っていうのは、別に嫌だとは思ってないんです。私もここが使えるのはすごく助かりますし、メディさんの研究も、よかったら手伝いますし。私が言いたいのは…」
私がここまで言ったところで、メディはぱっと顔をあげた。打って変わって、明るい表情だ。
「良かった!怒られたらどうしようって思ってたの!研究を手伝ってくれるのも大歓迎だよ。こんな可愛い助手さん、欲しかったんだー。それに…」
「ちょっと待ってくださいっ」
私はたまらずメディを制した。このままでは話がまったく進まない。
「問題はその、前の人たちが辞めていった理由なんです。私もこういう場所は欲しかったですけど、さすがにおばけの出る研究室は嫌です」
メディは何故かぽかんとした表情で私を見て、答えた。
「おばけなんかいないよ。だからそれは大丈夫だと思うよ?だってシンルちゃん女の子だもん」
私はメディのあまりにさも当然、というような口ぶりが妙に引っかかった。
「メディさんもしかして、怪談の真相に心当たりあるんですか?」
私が訝しげに聞くと、メディはゆっくりと頷いて答える。
「心当たりというか、ね。ごめんね、元々この話を怪談話にしたのは私なの。……そうだ。丁度新しい陣術も試したいし、真相を探る実験なんてしてみようか?」
私はつい最近どこかであったような展開に、頭がくらくらとしてきた。
「で、何だって俺はこんなトコに来てるんだ?」
「えーっと、メディさんが、男の人が必要って言ったから?」
ラニアと私は、キッチンで鼻歌を歌っているメディに聞こえないように小声で話し合う。
「で、何でその怪談話の首謀者って噂されてる奴の部屋に行かなきゃなんないんだよ…。怪しすぎるだろ。お前この前も怪談を解決したとか自慢してたし、もしかして魔道士やめて探偵にでもなるつもりなのか?」
ラニアはそう言って私をからかった。私とユリ先生が小人事件を解決した事を知った時は、かなり悔しそうにしていた癖に。
「自慢じゃないし、探偵になろうとしてる訳ないじゃん、何故か巻き込まれちゃうの!それに、こういう事頼めるのラニアしか居ないってさっき言ったじゃん!」
「……」
ラニアはいらついているのか、片手で銅剣をくるくると回し始めた。普段は学院内で銅剣を持ち歩かない癖に、私がこの話をすると何故かわざわざ持ち出してきたのだ。
「もしかしてラニア、怖いの?」
ラニアといるといつも一言増えてしまう。そしていつも言った後で後悔するのだ。
「ばっ!!怖い訳ないだろ!こっちは友達が一人も居ないアワレな小娘の為にがんばってやってんだぞ!?」
「ラニアだって誰かと楽しそうに話してる所、見た事ないよ!」
あの学院長の課題以来、私達はお互いの事を少しだけ認め合ったけれど、口喧嘩は相変わらず頻繁にやらかしていた。
「二人とも、飲み物は私が適当に決めてもいいかな?…あ、そうだ!今日は夕飯も食べていく?」
私たちの口喧嘩を中断させるように、キッチンからメディの明るい声が響き、ラニアは深いため息を吐いた。
「まぁ、俺だってあのメディさんって人がやったとは思ってないけど、何で真相を知ってるのに今更実験とやらが必要なんだ?直接話を聞けばそれですむじゃないか」
「えっと、二度と同じ事が起こらないようにする為に、新しい陣術を使って犯人を懲らしめたいんだって」
「はぁ…、それで男が必要って…、俺が囮役になるって事じゃないのかよ…」
やはり、幽霊の類が怖いのか、ラニアにいつものような元気が無い。
「んー、まだ詳しい話は聞いてないから、わかんない」
「わかんないってお前なぁ…、わかんないのに連れてくるなよ…。俺を何だと思ってるんだ…」
と、小声で話していると、いつの間にかメディが両手にコップを持って後ろに立っていた。
「二人とも、夕飯食べていくの?食べていかないの?」
ラニアと私の話を聞いていたのかいないのか、メディは相変わらずマイペースだ。
「はぁ、その前に説明してほしいんですが…」
ラニアが言うと、メディは両手を軽く叩いてにっこりと笑った。
「まぁいっか、もういつもより多めに作り始めちゃったから、食べていってね?実験の事は夕飯が出来るまでにぱぱっと説明しちゃうから」
「じゃあ、夕飯はいただいていきます。で、実験って俺は何をすればいいんですか?」
根が素直なのか、年上の女性に弱いのか、ラニアはさっきまで私に不平を垂れ流していた癖に、あっさり夕飯を一緒に食べる事を決めてしまった。場の空気的に、自動的に私も夕飯を食べていく事になってしまったのだろうか。
「よかった!じゃあちょっと待ってね」
メディはそう言って部屋の隅の魔道具を入れているらしき棚をごそごそと漁って、そこからマーカーらしきものを取り出した。
「実験って言っても、簡単なの。この特製マーカーでラニア君の身体にある陣を布いて、待つだけ。多分二日と待たずに結果が出ると思うよ」
「…その陣が呪いの正体ってわけじゃないですよね…?」
私は思わずそう言ったが、メディは笑顔で首を横に振る。メディの赤い髪が柔らかく揺れた。
「違う違う、この陣は私が最近開発した新しい陣だもん。じゃ、ラニア君、胸出して?」
「えっ!?胸に描くんですか!?」
ラニアは突然トーンの高い声をあげる。もしかして、メディに胸を見せるのが恥ずかしいのだろうか。意外とシャイだ。
「別に胸じゃなくても良いけど、身体に直接描かなきゃいけないし、ある程度広さが必要だからね。背中でも良いけど?」
「……服を脱がないでいいなら、背中で良いです」
メディが優しい声色でそう言うと、ラニアは俯き加減になってぼそぼそと返した。
メディがラニアの背中に陣を布いている間中、ラニアは右手を背中に回して服の背中側をずり上げ、左手で服の前の裾を引っ張ってお腹を隠すという、ずいぶんと格好の悪いポーズをしていた。男の癖に、そんなに胸を見られるのが嫌なのだろうか。
「メディさん、本当に陣を描くだけで良いんですか?ラニアを研究室に入れたりしないでも良いの?」
私がそう言うと、ラニアはきっと私を睨んだ。が、ポーズのせいかまったく威圧感は無い。メディは手を止めずに答える。
「いいのいいの、この陣の効力はすぐ発揮出来ると思うから。…あ、それから、」
メディはそこで手を止めて、ラニアの肩越しに顔をひょっこりと出して、私の方を見た。
「今日、うちの妹も夕飯食べに来ると思うけど、妹にも実験の事は内緒だよ?」
「妹さんも魔法学院の生徒なんですか。仲良いんですね」
私がそう言うと、メディは苦笑いを浮かべた。
「仲良いというより、ちょっとべったり過ぎて困ってるの。お姉ちゃんっ子っていうのかなぁ。寮に自分の部屋もあるのに、ほとんど毎日私の部屋に来るのよ」
メディを困らせるとは、妹はメディ以上にマイペースなのだろうか。
「はい、メディ特製、マル秘の陣完成っ!もういいよ、ラニア君」
陣は二十分ほどで完成した。料理が出来かけているのか、キッチンからも良い香りが漂ってきている。
「ちょうどご飯も出来る頃だし、そろそろあの子がきそうね」
と、メディが言い終わらないうちに、玄関の方から物音が聞こえた。どうやらくだんの妹が呼び鈴も鳴らさずに入ってきたようだ。
メディはその音を確認して、私たちに、ちょっと待っててね、と言い、玄関の方に小走りで走っていく。
「これだけで良いなんて、何か拍子抜けしちゃったね」
私はラニアに声をかけてみた。どうもメディによって背中に陣を描かれ始めたあたりから、ラニアはおとなしくなってしまっているような気がする。
「……うん、」
ラニアは上の空といった感じで、それだけ答えてまたボーっとしてしまった。
「……もしかして、ラニアってああいう人がタイプ?」
私はなんだか悔しくなってきて、からかうような口調でそう言ったが、ラニアはそんな私を醒めた目で一瞥して答える。
「…別にそういうわけじゃないけど、まあ、お前の百倍くらいはタイプかな」
「それどういう意味よっ」
別に私が怒る義理も無いような気もするが、私は何故か声を荒げてしまった。と、そこでメディとメディの妹が帰ってきた。私がそちらに振り向くと同時に、聞き覚えのある声が言った。
「あー、ホントだ。シンルちゃんだ」
メディの横に立っていたのはカスカだった。私は意表をつかれてしまって言葉が出ない。
「シンルちゃん、びっくりした?」
メディがふふふ、と意地悪く笑って言う。まるまる五秒ほど間を置いて、やっと事態を理解出来た。なるほど。
「びっくりしました。カスカちゃん、こんばんは。……もしかしてメディさんが私の事に妙に詳しかったのって、」
「そうそう、時々カスカからあなたの話を聞いたりしてたの。あなた達同じ寮部屋なのに全然お話しないんでしょ?もっと仲良くすれば良いのに」
「だってシンルちゃん私が帰ってくる時間にいつも居ないんだもん。……ところで、そっちの人、ダレ?」
状況に置いてけぼりにされて戸惑っていたのか、ラニアよりもメディが先に声をあげた。
「ラニア君っていうの。お姉ちゃんの新しい友達。かっこいいでしょ?」
ラニアはかっこいいと言われた事が嬉しかったのか、自己紹介の言葉を引っ込めて顔を赤くし、そのまま俯いてしまった。
「……ふーん、今日食べてくの?」
カスカはいかにも面白くないと言いたげな感じでそう言って、値踏みするような目でラニアを見た。嫉妬だろうか、なるほどかなりのお姉ちゃんっ子のようだ。
「あ、いただいていきます。カスカさん、よろしく」
自分より年下という事を知らないせいか、ラニアはすっかり萎縮して敬語で答えた。その様子を見て私はついふきだしそうになる。こんなに覇気の無いラニアを見るのも初めてだ。
四人で囲んだ食卓はとても賑やかだった。私にとって、こういう夕食の光景は本当に久しぶりの事で、とても嬉しかった。それに、メディの料理はどれもとても美味しかった。カスカが毎日メディのところに泊まっている理由のひとつはわかる気がする。
「これ、超おいしいです!メディさん!」
しかしラニアの言い方は大げさすぎる気がする。こんな感じでラニアがメディの料理を褒める度に、メディは花が咲いたような笑顔でお礼を言い、そしてその度にカスカはじとりとラニアを睨んだ。ラニアはカスカの視線には気づいていないようだったが。
食事が始まってから、メディも妙にラニアに話しかけていて、二人は何だかまるで恋人同士のように見えた。
「そういえば、メディさんとカスカちゃんは姉妹なのに、どうして寮の部屋が違うんですか?」
私がそう聞くと、メディが答えた。
「私たち、学年はひとつ違うでしょ?私が四年で、カスカが三年。カスカが入学した時、部屋が余ってたみたいで。それで私が希望して別の部屋にしてもらったの。ほら、シンルちゃんは知ってるでしょ。カスカの散らかし癖」
私は私たちの部屋の惨状を思って苦笑した。なるほど。それで中途半端な時期に入学してきた私が被害にあってしまった訳だ。
「カスカちゃん、部屋に居なくても存在感はばっちりです」
それにしても、こういう事だったなら、『勉強場所を差し出すから研究チームに入らないか』という取り引きはずいぶんと理不尽なものだったようだ。この人は意外と侮れない。
「これも旨い!メディさんって料理が上手なんですね」
ラニアがまた大声で言った。もう同じ事を何度も言っているのだが、メディは律儀にも答える。
「ありがとう、よかったらまた遊びに来てくれてもいいのよ。毎日でもね」
「……!!はい、また来ます」
ラニアはそう言って、私の方を向いて少しだけ微笑んで目配せした。私は一瞬、どういう意味か計りかねたが、考えてみれば、多分『この話に誘ってくれてありがとう』という意味だったのだろう。
……なんだか胸がもやもやする。
「…あら?どうしたの、二人とも怖い顔して」
と、不意にメディが言った。どうやら私とカスカに言ったようだ。カスカはともかく、私もいつの間にかそんなに怖い顔をしていたのだろうか?
「えっと、そんな事ないです、なんでもないです」
私はあわててそう答えて、誤魔化したい訳でもないのに、空っぽのコップを深く持ち上げて中身を飲んでいる振りをし、顔を隠した。
「……おねぇちゃん、私帰る」
と、カスカが不機嫌丸出しの低い声で言った。私が驚いてカスカの方を見ると、カスカは今まで見た事のないような怖い顔をしていた。場の空気が凍りついた、と思ったらぎょっとしているのは私とラニアだけで、メディは相変わらずニコニコとしていた。
「…カスカちゃん、どうしたの?」
私が居た堪れなくなってそう言うと、カスカはきっと私の方を見た。
「シンルちゃんも、今日は帰ってこなくていいから!ここに泊まってよ!一人にして!」
カスカはそう言ってばっと席を立ち、玄関に向かって歩きだす。私はおろおろしてメディに助けを求める視線を送ったが、メディは場違いなくらい気の抜けた声で『一人になるんだから、戸締りはきちんとするのよ~』なんて言っている。
程なくして、バタン!と玄関の扉が勢い良く閉められる音が響いた。私とラニアが呆然としていると、メディが手をぱちぱちと叩いて話し始めた。
「はい、これで実験の半分が無事終了しましたぁ。二人とも、お疲れ様。あの子にはちょっと悪い事しちゃったけど、そろそろお灸を据えてあげなきゃね」
「ただご飯を食べてただけですけど…。カスカさんは何で怒ったんでしょう?俺、妹さんに何か悪い事しちゃいましたか」
ラニアは状況が掴めずただ慌てているが、私はメディの性格やカスカの癖についての知識で一日の長がある分だろうか、直感的にメディの言いたい事がわかり始めた。
混乱した頭を無理やり高速回転させてつじつまを合わせる。メディが食事中妙にラニアに話しかけていた事と、その事でカスカが明らかに不機嫌になっていた事。これが実験だったなら、つまり…
「メディさん、ラニアに布いた陣って、どんなものなんですか?」
私が一番気になっていた点を聞くと、メディはにやりと笑って答える。
「呪詛返しの陣の一種よ。なんと前もって布いておくだけで、送られて来た呪詛を勝手に返しちゃう優れもの。身体に直接描き込めるから、自由に行動出来るのも新しいところなの。ただ、呪詛を送ってくる相手や呪詛の種類を特定して布陣しないと効果しないのが玉に傷ね。カスカは部屋に戻ってすぐやっちゃうつもりみたいだから、もうすぐ起動するんじゃないかな」
これで完全に理解出来た。なんとまあ、研究室の怪談の正体はカスカだったのだ。多分、メディが研究室の件で困っていた頃、カスカはそのシスコンっぷりを発揮して研究チームに入ったメディのファン達を次々と呪っていったのだろう。というか、そうとは知らなかったものの、ルームメイトである私は過去にその現場を何度か目撃している。私の周りはとんでもない人ばかりだ。
私が真相を察したのが表情でわかったのか、メディは私に向かって悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「シンルちゃんは、感が良いのね。言っておくけど、研究室の頃のは、私が指示したんじゃないのよ。カスカがやっていたのに気付いたのは、みんな辞めちゃって一人になってからなの。本人に聞いたら、怒られると思ったのかしらばっくれられちゃったけどね。だけど元々、私は一人で研究する方が性にあってたみたいだし、また新しい人が来てカスカにやられちゃうのも可哀そうだと思ってね、研究室の呪いって事にして噂を流してみたら、効果抜群だった」
私は、メディは実は相当に腹黒い人物なのかも知れないと思い始めていた。本当は研究室の頃からカスカの事に気付いててやらせてたのではないかと予想してしまうが、恐ろしくて言葉にする事が出来ない。
「……どういう事?カスカは何をしに帰ったんだ?」
ラニアは一人事情が掴めずに困惑している。面白いので私はそれを無視した。
「というか、メディさんが困っているだけで呪っちゃうって、カスカちゃんって本当にすごいお姉ちゃんっ子なんですね。魔法に覚えがある人を30人も呪詛掛けして、バレなかった事もすごいですけど」
「あの子は呪術の腕だけは確かだからね。何かと呪い、呪いって…、そりゃもう今まで恋人を作る事も出来なかったわ。まあ、この陣が成功すれば、これからは自由ね」
私は現時点でこの姉妹に深く関わってしまっている事を激しく後悔した。しかし逃げる事は出来そうにない。この夕食内のラニアとメディの会話だけですら、カスカは軽く沸点を超えてしまっているのだ。私がメディの勧誘の話を断ったら、どうなる事やら…。
そういった些細な事、実験の内容やカスカと姉妹である事等を隠していたのが全てメディの計算なのだとしたら…、とここまで考えて、私はその先を考える事を放棄した。
メディからすれば、これで必要最低限の人数で研究室は存続され、役に立つが時々暴走する妹の制御も出来るようになり、助手も手に入れた事になるが、そもそも最初からそういうメディのシナリオだったとしても、私にも少しは利益があるはずだし、これ以上考えると、メディの笑顔を可愛いと思えなくなりそうだ。
と、ラニアの背中、服の中の陣がやわらかい光を放ち始めた。私とメディがそれに気付いて注目する。と、ラニアはやっと事態が飲み込めてきていたのか、わなわなと震えて私達の顔を交互に見つめた。
「おいおい、さっきのその話だと俺今から呪術掛けられるんじゃないのか!?それって大丈夫なのかよ!?メディさん今『成功すれば』って言ったけど、それって…」
「うん、初めての実験なの。でも大丈夫よ。きっと成功するから」
メディが邪気の無い声であっけらかんと言い放つと、ラニアの顔が見る見る青ざめていく。
「そっそれ…、あぶなっ…!!い、今からでもカスカさんの部屋に行って止めましょう!!…あっ、シンルお前カスカさんと同室なんだよな!!案内しろっ!!」
「やーだよ。というか、もう遅いって。自分の背中見てみなよ」
私は思いっきり舌を出して言ってやった。さっきの話だと、メディがラニアの事ばかりかまっていたのは、気に入ったからではなく、カスカを怒らせる為だったのだ。ざまあみろ。
ラニアは首を思いっきり右に捻って背中の光を確認し、恐怖で今度は顔を真っ赤にした。
「メ、メディさん、これどうなってるんですか!?どうなってるんですか!?」
「大丈夫よー。今ちょうど呪詛返しが発動してるところなの。多分もうすぐ光も消えると思うわ。それより冷めちゃう前に夕食を片付けちゃいましょう」
ラニアとは対照的にいつも通りの調子でメディが言って、食事を再開する。私も食事を再開するが、ラニアはよっぽど呪いの類が苦手なのか、それどころでは無いようだ。まあ、私も同じ状況なら落ち着いて食事する気分にはなれないが。
程なくしてラニアの背中の陣は光を失った。メディは陣の確認もせず、のんびりと私に言う。
「シンルちゃん、食事が終わったらカスカの看病に行ってくれるかな。今回はそんなに強く相手に返すようにしてないけど、きっと丸二日は寝込んじゃうと思うな。
あ、それから、カスカが治ったら研究室に来てね。手続きしなきゃいけないから」
メディが、私の事をすでに研究チームに入った事にして話をするのは今に始まった事ではないが、今回はもうそれに反発する気が起きなかった。
「そういえばラニア君も特待研究生なんだよね。シンルちゃんと一緒に入る?」
「いえ…、遠慮しておきます」
可哀そうに、ラニアはすっかり肩を落としてしまっている。私はその様子を見て吹き出した。
ちょっと安心したような気もするが、自分が何に安心しているのかはよくわからない。
それよりも、これからの事の方が百倍不安なはずなのだが。
「シンルさん、先ほどは見苦しい所を見せてしまってすみません」
サルトルは腰の高さほどの中空に、魔法のマーカーで魔力痕を辿る陣を描きながら、本当に申し訳無さそうに謝る。
ユリ先生はサルトルの指示で触媒となるものを調達しに行っていて、室内には私とサルトルしかいない。
「いえ、気にしないで下さい。さっきまで二人は仲が悪いのかなって思っていたので、ちょっとびっくりしましたけど…」
サルトルは、ユリ先生が部屋を出た瞬間から、いつも通りの冷静な調子に戻っていた。その豹変の理由は、なんとユリ先生にあった。
「仲が悪いというより、本当は私が一方的に嫌われているだけなのです。卒業以来、何年も会っていなかったので、ちょっとは素直になれるかとも思ったのですが…。どうしてもユリの前に出ると緊張してしまうのは、治らないようですね」
「…あれって、緊張していたんですね」
素直になれないから「そろそろ私のところに来る気になりましたか?」なんて俺様キャラになる理由がよくわからない。それは私の恋愛経験が足りないからだろうか、もしくは世間一般的にも可笑しな事なのだろうか。
「それにしても、シンルさんが話していた、世話を焼いてくれる師匠というのは、ユリの事だったのですね」
そう言いながらも淀みなく腕を動かし、室内の大半を占める大型の陣をスラスラと描いていくサルトルからは、先ほどの面影を欠片も感じない。
「はい。休みの日には買い物に連れて行ってくれたりもするんですよ」
「そうですか…、ふむ…」
サルトルはそこで、陣を描く手を止めて、考え込む。その表情は真剣そのものなのだが、先ほどの事もあって、私は、内心可笑しくてたまらなかった。私は何とかその様子を見せないように、陣に使う式符に呪文を描いていく。
この魔力痕の陣は、世に出ていないし、研究や改良の加えられていない陣なので、かなり大掛かりなものになりそうだ。
と、考え込んでいたサルトルが口を開いた。
「その、ユリはどういった物が好きなのでしょうか?買い物の時、どういう物に興味を示しますか?」
その、冷静な論調と、内容のかみ合わなさに、つい私は吹きだしてしまった。サルトルは困ったような顔で私を見ている。私は何とか笑いを抑えて答えた。
「……笑ってしまってすみません。
そうですね、可愛らしい小物は好きみたいですよ。この前、星型の髪留めを買ってました。自分には似合わないから、髪留めとしては使わないけどね、って言ってましたけど」
「なるほど、それは意外ですね…。確かに、あのユリに星型の髪留めは似合わない」
「……それ、本人に言ったら怒ると思いますよ」
サルトルはやはり冷静にそう言ったが、私は突っ込まずにはいられなかった。ユリ先生本人を前にした時のあの調子では、本当にさらっと言ってしまいそうだ。
「そういえば、シンルさんの世代は、特待研究生として入学した者が二人いるのですよね?」
サルトルは私の言った事を聞き流して、作業を再開しながら言った。
「はい。私はサルトルさんのお陰だし、事情もあったから、本当の特待研究生じゃないのかもしれないけれど、もう一人はラニアといって、入学時に学院長の試験を受けて特待研究生になった人で、すごく優秀なんです」
悔しいが、優秀なのは事実なので、私はそう答える。
「いえいえ、シンルさんもすごく優秀ですよ。噂は聞いています。…それにしても、やはり何もかも私たちの世代とそっくりだ。一年に二人が、最初から特待研究生として入学した事も、その二人が学年トップクラスの成績を争っている事も」
サルトルは懐かしそうに目を細める。
「やっぱり、サルトルさんも特待研究生だったんですね」
私はサルトルに褒められた事を嬉しく思いつつ、そう聞き返した。一年に二人も学生の特待研究生が認められる事はとても珍しいらしく、私たちの世代の事を、十年前以来、と言っているのを何度か聞いた事があるので、サルトルとユリ先生が、その十年前の二人の特待研究生だという事は、先ほどの話の流れでなんとなく予想出来ていた。
「えぇ…。しかもあのハルトゼイネルを師に持ってしまったものだから、毎日、恐ろしく過酷な課題を山ほど出されていましたよ」
サルトルは苦笑しながら言った。私も、学院長の意地悪な課題を一度体験している。
学院長に報告した時に知ったのだが、あの巨神兵の涙を取って来る課題の時、赤竜人族の魔道士が襲ってくる事は、最初から予想されていたらしい。私とラニアが危険な魔道士を撃退した事を報告すると、学院長は、ほうほう、とのん気に笑って、『それは良かった。いつものメンバーで行くと、遠くから様子を伺ってくるだけで手出ししてこなかったので、困っていたのです。あなたたち子供二人にやられたとあっては、もう襲ってくる事も無いでしょう』と言った。
そんな課題が毎日続く苦痛なんて、私には想像出来ない。
「学院長って、サルトルさんの頃はよく学院に居たんですね。今は、いろいろなところを飛び回ってるみたいで、学院にはほとんど戻ってこないんです」
「その様ですね。まあ、昔も突然居なくなる事はよくありましたが。……まったく、身体ひとつで世界中を飄々と飛びまわれる魔道士なんて、多くの召還術と全ての属性の術式を使いこなせるあの人ぐらいのものです」
サルトルは呆れた、と言わんばかりの表情で言う。今では、三大魔道士として同列のように並べられていても、サルトル自身、学院長の魔道士としての強さに自分が及んでいない事は自覚しているのだろう。
私から見ても、サルトルは超えられる気がしないほどの素晴らしい魔道士だったが、学院長は、もっと何か得体のしれない、比べる事も出来ないほどの高い次元に居る魔道士だった。
第一、あの巨大な飛行鯨を使い魔として使役している時点で規格外なのに、産まれもっての相性で、一人が満足に使いこなせる属性はせいぜい3属性が限界のはずなのに、炎、水、風、光、闇の全ての属性の術式がほぼ完璧に使いこなせるなんて、他に聞いた事がない。
「……おっと、そういえばこれを忘れていました。触媒が、ユリに頼んだものだけでは足りませんね」
と、サルトルは唐突に言い、ポケットから手帳を取り出して何事か書き、私に手渡した。
「シンルさん、すみませんがユリのところに行って、ここに書かれたものも一緒に持ってきてください。こちらの作業はもうすぐ終わりますし、シンルさんに頼んだ式符も私がやっておきましょう」
サルトルの手際良い譜陣の様子が見れなくなるのは残念だったが、私は素直に従う事にした。私の方の作業も、半分も残っていないし、私とユリ先生が別棟から帰ってくる頃には、陣はもう完成しているだろう。
「ユリ先生、何してるんですか?」
主に研究生達によって実験が行われている、研究棟の倉庫に足を運ぶと、そこにはなぜか、何もせずに椅子に座ってぼーっと窓の外の夕日を眺めているユリ先生の姿があった。ユリ先生は私の声にぎくりと振り向く。とても不安そうな表情をしていた。
「……シンルか。何しに来たの?」
その声にはいつものはきはきした感じが無い。
「触媒、ユリ先生に頼んだのだけじゃ足りないみたいで、それで取りに来たんです。というか、どうしたんですか?もしかして触媒がなかったとか?」
ユリ先生のあまりの元気の無さに、私まで不安になってしまう。ユリ先生はけだるそうに横に置かれた木箱を指差して、答える。
「いや、あるよ。ここにぜーんぶ、入れてある。でもさ、気が重くってさ…」
ユリ先生はそこまで言って、がくりと肩を落とした。
「あー、何でサルトルのヤロウが来る前に気付かなかったのかなぁ。考えてみれば、確かに昔の事件と同じだよなぁ。でもあいつ、ああなったらもう止まらないよなぁ…」
「………??」
私は事情が飲み込めずに、倉庫の入り口に立ち尽くす。
「シンル、とりあえずこっちにおいで」
ユリ先生は俯いたまま、私の方を見ずに手招きをする。
私がしょうがなく近づくと、ユリ先生はいきなりがばっと顔を上げて、私の両肩を掴んだ。思わず、「ひゃっ!?」と悲鳴をあげてしまう。
「シンル、これから言う事、ぜーったい秘密にする!?サルトルに言わない!?それから、怒らない!?」
ユリ先生はそんな私にはお構いなしで、私の両肩をぶんぶんと揺さぶりながら、眼をぎらつかせて言う。私はまったく意味がわからないまま、勢いに押されてかくかくと首を縦に振ってしまった。
ユリ先生はそんな私を見て、はぁーっ、と深いため息をついて、口を開いた。
「実はさ、今度の事件、俺犯人知ってるんだよね。……ていうか、原因俺かも…」
「…………は?」
「いや…、だから、真相究明するまでもなく、知ってるんだよね。俺のせいだし」
「………」
それは予想外すぎる。私は絶句してしまった。
そのままどちらも口を開く事なく、夕暮れの倉庫にしばしの沈黙が訪れた。私はもう、混乱してしまって何を言っていいのかわからないまま、ユリ先生の顔を見つめるしかなかった。その、ユリ先生の顔が、だんだんと泣きそうな表情に変わっていく。
私は居た堪れなくなって、混乱した頭で何とか言葉を見つけて言った。
「えっと、怒らないし、サルトルさんには言いません。……でも、それだけじゃあ意味がわからないです」
「うわーっ!シンルーっ!」
突然、ユリ先生はがばっと私に抱きついて、ぐりぐりと身体を押し付けた。そして、ほとんど涙声で、「あのね、あのね」と話し始める。
まったく、どちらが年上かわかったものではない。
ユリ先生の話は、ユリ先生とサルトルが卒業を間近に控えた頃までさかのぼる。
その頃、ユリ先生は研究生として学院に残る事が決まっていたが、サルトルはまだ、学院に残るか、赤国に渡るか、決めかねていた。そして、サルトルとライバル関係にあったユリ先生としては、サルトルが赤国に渡るのは、きっちりとした勝敗をつけた後にして欲しかったのだという。
そこでユリ先生は、サルトルに『進路が決まったら読め』と言って、一枚の手紙を渡した。(ユリ先生本人は、手紙を果たし状と言っていた)
しかし、大人なユリ先生は、手紙を渡した後で考え直して、やっぱり、そういう争い事は良くないな、と思った。(この部分はどう考えてもユリ先生らしくないけど)
そこで、ユリ先生は秘密裏に手紙を回収する為に、一体の鬼を召還した。その鬼は、身体を透明にする事が出来る悪戯好きの鬼で、ユリ先生が、サルトルに渡した手紙をとって来い、と命令すると、楽しそうに笑って窓から飛んで行ったのだという。
そして、その鬼はそれっきり帰ってこなかった。サルトルへの手紙も無くなっていたが、同時に学院中で多数の小物が紛失し始めた。明らかに召還された鬼が暴走して起こした事件だった。つまり、ユリ先生は召還の術式を中途半端に失敗してしまっていたのだ。
それが、ユリ先生とサルトルの時代の、『学院の怪談』。
そして、ユリ先生とサルトルの挑んだその事件は(ユリ先生の果敢な捜査撹乱もあって)未解決に終わり、サルトルの卒業と共に、小物が紛失する事も無くなった。
その後、ユリ先生は独自に鬼の居場所を探したが、身体を透明に出来る能力を持った鬼を、見つけられるはずもなかった。
そして、誰もがその事件を忘れ去っていった。が、ユリ先生は、やっかいな事に召還の術式を中途半端に成功させてもいた。
サルトルの存在、つまり、私に会いに来たサルトルがトリガーとなって、召還した鬼が六年振りに活動を再開してしまったのだ。
それが、今回の『学院の怪談』の正体。
「今回はその魔力痕の陣とやらで、多分鬼の住処までわかっちゃうのかなぁ?召還してすぐ逃げられたから、俺も知らないのに。というか、そこには多分、あの手紙…、じゃなくて果たし状もあると思うんだよ。うわああ、あいつに見られるくらいなら死ぬ…」
ユリ先生は、一通り話し終えた後も、ぽかんとしている私に向かってぐちぐちと嘆く。
そういえば、私はこの人に『素直じゃない』と言われた事があるけれど、その言葉をそっくりそのまま返してやりたいと思う。
どう考えても、その手紙はラブレターで、学院に残って欲しい、という内容だったのだろう。そして、ユリ先生の性格からして、多分渡した後で恥ずかしくなって、読まれる前に回収しようとしたのだ。
この二人、実は両思いだったのでは。
「とにかく、前回はごまかせてても、今回は本当に無理だと思いますよ。魔力痕の陣は、近くに同系の魔力の発生源があるなら、そこまで追跡できますし。陣だけでは、ユリ先生が召還した事はバレないでしょうけど、鬼は魔法生物だし、住処まで行けちゃうと思います」
私は、限りなく繊細になっているユリ先生を出来るだけ刺激しない様に、言葉を選んで言う。正直、呆れてしまって怒る気は起きない。
「だよなぁ、だよなぁー。そこでシンル、師匠の頼みを聞いてくれないかい」
「えっと、二人とも知らなかった振りをして、住処に着いたら、まず鬼を何とかして、サルトルさんより早く手紙を探しましょう。二人で探せば、多分先に見つけられますよ」
私はユリ先生の言いたい事を先読みして言った。その瞬間、ユリ先生はまたがばっと私に抱きついて、私の身体を力任せにぶんぶんと揺さぶった。
「わかってるじゃないか、ありがとう!でもシンルが先に見つけても絶対開封するなよ!そっと俺に渡せ!」
開封しなくても中身なんて透けている。
私とユリ先生が部屋に戻ると、陣は既に完成していて、後は四方に触媒と式符を設置するだけになっていた。
そしてなぜか、その陣の中心で、サルトルが両手を広げた状態で直立している。
「遅かったじゃありませんか、あなた達がのんびりしている間に、もう陣は完成してしまいましたよ!見てください、この美しい陣をっ!完璧ですよっ!フハハハハッ!」
もしかして、陣が完成してから私とユリ先生が話し合っている間、ずっとあの姿勢で待っていたのだろうか。もはや、緊張するとかではなく、わざとやっているとしか思えない。
「こんな重いもん女二人に運ばせといて何言ってんだ。それで陣が不発だったら笑う気も起きないぞ」
ユリ先生はイライラした声で言うが、ユリ先生の心情を知った今となってはもう、その嫌味も素直に嫌味として聞く事が出来ない。この二人はどうしてこうなのだろう。まったく理解が出来ない。
「このサルトルにそんな失敗はありえませんよ。研究の成果によって長年の謎が一つ解明される。素晴らしい瞬間に立ち会えた事を幸運に思ってください。これで、無数の引き分けになっていたユリと私の戦いがまた一つ、私の勝利となるのです」
「そんなモンもう時効だよ。卒業時点で俺が勝ち越してたんだから、それでもう結果は出てるだろ」
「おや?ユリ、正しい記憶を持つ事が、偉大なる魔道士への第一歩ですよ。確か卒業時点では……」
そんな会話を続ける間にも、サルトルのポーズは目まぐるしく変化し、そしてユリ先生の表情も目まぐるしく変化していく。
「あの、とりあえず触媒と式符をセットしましょう。一応、三人の合作ですし、勝敗なんて…その、ね?」
私は出来るだけ二人を刺激しないように話しかける。師匠と、今や三大魔道士と呼ばれる偉大な二人の魔道士を前にして、なぜこのような気を使わなければならないのだろう。二人きりで話す時は、まるで父と母のように居心地の良い相手なのに。
「そうでしたね。シンルさん、あなたの描いた式符の呪文、とても丁寧で関心しましたよ。きっとこの術式は成功するでしょう」
「ありがとうございます。嬉しいです」
私は褒められた事が素直に嬉しく、そう答えたが、ユリ先生は自分の師匠としての仕事を取られたと思ったのか、ぶすっとしてその様子を眺めていた。まさか私に嫉妬したという事はないと思うが…。
――始祖 アブクードに描くは 智の荼羅図
我 バベルに組み込まれし石塊 欲するは智
此処に過ぎ去った熱に 始原の熱を重ね
我が渇望に答えよ ホットリーディング――
陣を組み終わると、サルトルは静かに唱えた。その途端、陣が輝き、四方に置かれた触媒の上の式符がふらふらと宙に浮き、震え始める。
式符はしばらく中空で小刻みに震えた後、四枚全てが同じ方向を向いて止まった。陣は、全体では少しずつ光を減衰させていき、中心では逆に光が強くなっていく。しばらくして、中心の光はぼんやりとした子鬼の形に浮き上がった。
「サルトル、お前の詠唱文センス、まったく変わってないな。ホットリーディングって何だよ。何とかならないのかよ」
「ふむ…、これは使い魔でしょうか…?」
サルトルはユリ先生の文句を華麗に聞き流して、興味深そうに陣の中心に浮かび上がった光の塊を眺める。
私とユリ先生は、それがあの子鬼だとわかるが、サルトルにとっては何かの生物としかわからないであろう。魔力追跡の対象が、魔法ではなく、魔法生物であった為、こうなったのだ。とりあえず、ユリ先生の仕業である事はバレなさそうなので、何とか無事に終わりそうだ。
「えっと、魔法ではなく魔法生物のようですね。こういう場合も想定されているのですか?」
私は出来るだけ驚いた風を装って聞く。冷静な状態のサルトルの洞察力の深さは知っているので、ボロを出さないように細心の注意を払っているつもりだが、大丈夫だろうか。
「もちろん!私の術式は完璧なのですよ。それに、魔法生物であった事はむしろ都合が良い。式符も反応しているし、間違いなくこの魔法生物は、学院の近くに潜伏しています。この式符の示す方向に進めば、この魔法生物までたどり着けるでしょう!使い魔であれば、そこから犯人を割り出す事も容易です!フハ、フハハハッ」
とりあえず、この調子なら大丈夫そうだ。
「そんな簡単にいくかよ」
全ての真相を知っている癖に、ユリ先生はサルトルのやり方を否定しなければ気が済まないのだろうか?
とにかく、私達三人は陣から式符を一枚取り、その式符の示す方向に向かう事にした。現在地である寮は、魔法学院の地下の断崖をくり抜いて作られているのだが、寮の最下層まで降りても、式符はさらに下を指している。これはつまり、地底でなければ、海岸近くに魔法生物が潜んでいるという事だ。
私とユリ先生が、外に出る為に寮の階段を上ろうとすると、サルトルが後ろから私達二人の肩に手を置いた。振り向くと、サルトルは不気味な笑みを浮かべて言った。
「フフフ…、魔道士ともあろうものが、そのような方法を選んで良いのですか?」
サルトルはそのまま私達の肩を掴んで、廊下の突き当たりの窓までぐいぐいと引っ張った。そして窓を開け放つ。潮風が吹きつけ、私とユリ先生の髪をなびかせた。
「おまっ……ちょっと待てよっ」
ユリ先生が焦ってサルトルを止めようとするが、もはやサルトルには聞こえていない。サルトルが両手で印をすばやく結び、窓から手を出すと、その手に、はるか下の海岸から吸い上げられた水が集まる。
「これくらいあれば、三人分を支えられる程の翼が作れるでしょう。さあっシンルさん!捕まって下さいっ」
サルトルは嬉々として叫びながら、私に言う。私が驚きつつもサルトルの腰にぎゅっとしがみついた瞬間、サルトルはばっと窓から身を乗り出した。一瞬、ふわりとした浮遊感を感じた瞬間、海に向かって落ち始める。私は恐怖で背筋が凍りついた。この男、まだ水翼の印も詠唱文もまったく使っていないのに飛び出した!というか、ユリ先生は!?
「だああーっ!待てって言ったのにッ!!」
と、ユリ先生の声が聞こえる。私が落下の目まぐるしい視界の中でユリ先生の姿を探すと、いつの間にかユリ先生はサルトルの両手にいだかれていた。
「暴れないでください!印が結べない!」
サルトルは落下しながらも楽しそうに叫ぶ。駄目だ。私死ぬ。だって暴れる暴れない以前に、ユリ先生を抱いたまま印を結べるはずがない。お母さん、帰省出来なくてごめんなさい。馬鹿モードのサルトルが予想以上に馬鹿でごめんなさい。シンルは、もう駄目です。
「まったくもう、しょうがないっ!!シンルさん、行きますよ!しっかり掴まっていてください!」
と、サルトルが言い終わった瞬間、ぐぐっと腕が引っ張られた。私はその衝撃で危うくずり落ちそうになったが、必死でしがみついて耐える。程なくして、私達の身体は空中で安定した。
なんと、詠唱も印もなく、巨大な水翼が完成している。何が起こったのか理解は出来ないが、どうやら助かったらしい。
「気持ちが良いですね!」
サルトルは水翼をばっさばっさと羽ばたかせながら、楽しそうに言う。ユリ先生はサルトルにお姫様抱っこされたまま、眼を白黒させている。
「あははははっ!!」
私は予想を大きく超える出来事に、恐怖を通り越して笑い出してしまった。広大な海に夕日が沈んでいくのを眺めながら、潮風の吹く中をゆっくりゆっくりと降りていく。確かに、とても気持ちが良かった。
「良いからっ!早く降ろせよっ!高いところは苦手なんだよ!あと抱きついてんじゃねぇっ!」
ユリ先生はそう言いながらも、両腕だけはサルトルの首にしっかりとしがみついて離さない。
結局、私達はたっぷりと空中散歩を楽しんで、砂浜に降り立った。ユリ先生は本当に高い所が苦手だったらしく、地に足が着いた瞬間、へなへなと座り込んでしまった。怒る気力もない様子だったが、眼だけは恨めしそうにサルトルを睨みつけていた。恐怖か恥ずかしさか、どちらかはわからないが、顔が真っ赤になっていて、何の迫力もなかったのだけど。
「サルトルさん、さっきの水翼、印も使わずに発動できるなんてすごいです」
私は素直に関心してそう言ったが、サルトルはあっけらかんとして答える。
「いえ、印なら結びましたよ?あの規模の水翼を印無しで発動できる魔道士は、今の世には居ないでしょう」
「……ユリ先生を抱っこしたまま?」
私が疑いに満ちた表情でさらに追求すると、
「ええ。足で結びました」
サルトルは、サラリと言い放った。
やはりこの人は、すごい。色々な意味で。
「ところで、式符の反応が強くなっています。目的地は近いですよ。角度を見ると、どうやら目標は海岸洞窟か何かの中に居るようですね。さあ、行きましょう!」
サルトルは既に手のひらに式符を浮かべていた。確かに式符は、やや斜めになりながら断崖の方向を指している。サルトルは、ユリ先生の前ではとことんアグレッシブで居ないと気が済まないのだろうか。
「い…いや、ちょっと休まない?」
よっぽど怖かったのだろうか、ユリ先生は未だに砂浜にへたり込んで、肩で息をしている。
「ユリは休んでいてもかまいませんよ!さあ、シンルさん、いきましょう!」
と、サルトルは歩き出す。ユリ先生は、先に住処につかれては困ると思ったのか、操り人形のようなギクシャクとした動きで立ち上がって、ふらふらと歩き出した。
式符の示す場所は、砂浜が途切れた先、いくつもの大きな岩が無造作に転がる崖の麓だった。学院から歩いて降りられる場所からはもっとも遠く、泳ぐ事が目的の人も、ほとんど来ない。その崖の奥まった場所に、小さな穴が開いている。どうやら、ユリ先生の召還した鬼はここを住処にしている様だ。
「ふむ…。反応は確実にこの中からなのですが…、この大きさだと、入れそうにありませんね」
サルトルは残念そうに言って、崖の穴を覗き込もうとする。と、それをユリ先生が制した。というより、半ば強引に割り込んだ。
「ちょっと待ってろよ。今、中を照らして…」
ユリ先生はそう言って、穴の中に片手を入れて、指先に魔法の灯を点した。それから、ぐぐっと中を覗き込む。ユリ先生としては、サルトルに中を調べられるのは危険と判断したのだろう。サルトルは不満そうにその様子を見ている。
ややあって、ユリ先生は身体を起こし、嬉しそうに報告した。
「うん、入り口は狭いけど、中は広そうだ。シンルなら入れそうだと思うぞ」
ユリ先生はそう言って、私に目配せする。なるほど、多少のイレギュラーだったが、それは良い作戦に思える。
「ユリ、それはいけません。危険でしょう!中にもし使い魔を使役している魔道士がいたら…」
「いえ、やってみます!大丈夫、もし危なくても、急いで逃げて来ますから!」
私はサルトルの言葉にかぶせるように言った。ちょっと強引だが、ユリ先生の望みを叶えるにはこの方法が一番良いだろう。一人なら、二人の痴話喧嘩に付き合わなくて済むのも、嬉しいところだ。
「私が入り口をちょこっと爆破しても良いのですが…」
「やるって言ってるんだからそんなの良いよ!シンルは俺の弟子なんだから、甘く見んなよ」
ユリ先生はそう言って、私の腕をぐいっと引っ張り、耳打ちした。
「鬼に会ったら、『ミズマユリの名において命ず』で良いからな。で、とりあえず使役関係解除しちゃえ。そうすればサルトルに掴まってもバレないから」
私は小さく頷いて、それからサルトルの方に向いた。サルトルもしょうがなく認めたようで、『気をつけてくださいよ。何かあったら、すぐ逃げてくるように』と言って、式符を渡してくれた。私は式符を握り締めて、崖の穴の中に入り込んだ。
穴はとても狭く、私一人がぎりぎり通れるくらいだったが、ユリ先生の言った通り、2メートルも進まないうちに圧迫感が無くなった。私は慎重に立ち上がり、印を結んで指先に魔法の灯を点した。
洞窟は意外と長く、苔のこびり付いた滑りやすい岩の中を、私は5分ほど歩いた。奥に進むほどに、足元に転がる、学院から盗んできたと思われるものが多くなっていく。それらは、水に洗われてほとんど原型をとどめていない。どうやらこのあたりの位置までは海が満ちた時に海水が入り込んでくるらしい。式符の反応はいよいよ強くなり、鬼が近い事を知らせている。
洞窟は次第に登りになり、ついに海水が入り込まない位置まで来たと思った時、登り坂が終わり、視界が開けた。
「わぁ…」
私は思わず小さく声をあげた。五畳ほどの広さの行き止まりの空間に、無数の、本や、何かの袋、花瓶、細々とした装飾品などの物が、所狭しと転がっている。そしてその中心の、可愛らしいデザインの枕の上に、身長30センチほどの、一人の小人が眠っていた。どうやらこの小人が、ユリ先生の召還した鬼のようだ。
私は小人が起きないようにそっと近づいて、ちょっと可哀そうに思いながらも、勢いよく小人の両足を掴んだ。
「わっわっ!?」
小人は驚いて眼を覚ましたが、もう遅い。いくら透明になろうと、こうなってしまえばこっちのものだ。
「えーっと、ミズマユリの名において命ず、ミズマユリとの使役関係を解除せよ!」
と、私が叫んだ瞬間、小人の身体から何かが放出されるように、小人の小さな頭髪と服が揺れた。小人は戸惑った表情で、おとなしくされるがままになっている。
「お前……」
異変が終わったのを感じ取ったのか、小人はわなわなと身体を震わせながら呟いた。私は、何かされるのかと警戒し、身構える。
緊張の中、一拍置いて、小人ははじけるような笑顔になった。
「お前、良いヤツだな!やっと呪いが解けた!!」
「え?」
私は、召還などの一時的な契約は、被召還者にとって呪いのようなものだって講義で習ったなぁ、なんて思い出しながら、間の抜けた声をあげる。小人はお構いなしで嬉しそうにまくし立てる。
「いや、俺もこういう悪戯は好きだけどさ、ホント困ってたんだよ!召還も中途半端な状態だったから、どうすれば解けるのか全然わかんなかったし!それもずいぶん昔の事なのに、最近になっていきなりまたここに戻されるし!」
私は呆気にとられて、小人の甲高い声を聞く。
「俺、アルヴィー。いやー、恩があるからさ、今度何かあって、ステルスの小人の力を借りたい時は、俺の名で呼んでくれて良いぞ!だけど、術式を失敗するんじゃねぇぞ!そういうのはもう嫌だからな!」
「はぁ……、そうですか」
この小人はついさっきまで召還によって痛い目を見ていたのではないのだろうか。召還術を使う時、自分と性格や性質の似た召還者は呼び出しやすいと習ったが、つまりこれはそういう事だろうか。
「ところで、取り急ぎ今頼みたい事があるんだけど…」
私は小人の足を離して、出来るだけ穏やかに言ってみた。小人は私の周りを嬉しそうにくるくると飛び回って、明るい声で答える。
「おう!何でも言ってくれ!」
「このガラクタの山の中から、探したいものが三つほどあるんだけど…、どこに何置いたか、覚えてる?」
「あははは!変な事聞くなよ。全然覚えてないな!」
「……じゃあ、一緒に探してください」
私はがっくりとうなだれながら言った。早く洞窟の中の陰気な空気から開放されたいが、そうもいかないようだ。
その後、アルヴィーにミズマユリとの契約の事を口止めして、この事件は、本人の意思での悪戯だったという事にして口裏を合わせてもらった。
それから、私に捕まった振りをしてもらい、サルトルとユリ先生の前に連れ出した。
サルトルは私の報告を聞いても、アルヴィーにはまったく怒らず、むしろ、長年の謎が解けた事と、魔力痕の陣が完璧に成功した事を喜んでいた。アルヴィーは、ユリ先生の姿を見つけた瞬間、ぎょっとした表情をしていたが、私の言いつけ通り、召還の事はまったく口にしなかった。
アルヴィーはしおらしい態度で私達に謝って、それから、もう二度とこの辺りには来ません、と誓ってから去っていった。多分、私が呼んだら来るのだろうけれど。
それから私達は、洞窟の中の大量の盗品を運び出さなければならなかった。もう危険が無い事はわかっていたので、ユリ先生が入り口を少しだけ爆破して、三人で洞窟に入り込み、もくもくと盗品を運び出した。もくもくと、と言っても、終始、ユリ先生とサルトルは口喧嘩を続けていたけれど。
全て運び終わった時には、すっかり日が暮れてしまっていた。サルトルは、見つかったノートを持って、満足そうに帰っていった。というか、水翼の術式で海へ出て行ったのだが、まさかそのまま海を渡りきってしまうのだろうか。
断崖の道を、私とユリ先生が並んで歩く。私はへとへとになっていたけれど、ユリ先生は、なんだか楽しそうにニコニコしていた。
「なぁシンル、手紙は海に流されてたって、嘘だろ?お前、絶対どっかに隠して持ってるだろ!」
ユリ先生は明るい声で言う。もしかすると、久しぶりにサルトルに会えて嬉しかったのだろうか。
「本当ですよ。第一、六年前だし、洞窟の中のあの状態じゃ、残ってる方が不思議ですよー、多分?」
私は、わざと意地悪っぽい言い方をしてみる。
「てめぇっ!やっぱり何かおかしいぞ!どこに隠した?身体検査だーっ!」
ユリ先生は笑いながら私に飛びつく。私は軽い悲鳴をあげてもがいた。
「だから持ってないですって。ちょっと、くすぐらないでっ!…きゃぁーっ!!あははっ」
朝から動きっぱなしですごく疲れたけど、何だかんだ言って今日一日は楽しかった。それに、ユリ先生の事も、サルトルの事も、最初はびっくりしたけど、前よりももっと好きになれた気がした。
サルトルがノートに挟まれた古い手紙に気付くのは、いつになるだろうか。
私がサルトルに魔法の才能を認められ、それまで予想もしなかった人生を歩み始めてから一年。季節はまた夏になり、いつも騒がしかった魔法学院は一ヶ月の夏季休院に入って、少しだけ静かになった。
この時期、寮住まいの多くの生徒達は特別便の馬車や舟に乗って里帰りし、講義も開かれない為、教授達も各々が望んだ場所で休暇を取る。学院に残る者は、研究熱心な一部の研究生だけだ。
私の村までの便はもちろん存在しなかったので、学院長が私に、飛行鯨を貸してやる、と言ってくれたけれど、私はそれを断って魔法学院に残った。ライバルのラニアや、不気味な同居人のカスカも里帰りしていたので、私は何の気兼ねもなく魔法の勉強に打ち込めるこの一ヶ月を無駄にしたくなかったのだ。懐かしい母と村の事は少し気になったが、まだこちらに来て一年も経っていないし、どうせ帰るなら卒業してからでも遅くない、と思った。
ユリ先生も学院に残っていたので、私は毎日ユリ先生の部屋を訪ねて、魔法の手ほどきを受けた。ユリ先生は『将来、高名な魔道士になったら、師匠はミズマユリだって言えよな』と冗談っぽく言って、私に付き合ってくれた。それから、個人授業の合間におしゃべりもたくさんした。
それで知ったのだが、実はユリ先生も最初から特待研究生として魔法学院に入学した人の一人だった。どういった経緯で特待研究生として迎えられたのかは教えてもらえなかったが、大筋ではどうやら炎術の才能に秀でている事をハルトゼイネル学院長に認められたかららしい。教育課程終了後も、特待研究生のまま魔法学院に残ったが、小遣い稼ぎのつもりで始めた教授職が案外楽しかったらしく、研究をほったらかして教授職ばかりやっていたところ、数年で特待研究生の権利を剥奪されてしまったと言う。それについてユリ先生は、『まぁ、研究よりみんなに教えている方が楽しいし、別に良いんだ』と言っていた。私が、『研究をしないのに夏季休院で里帰りしないのは何故?』と聞くと、ユリ先生は明るい声で、『帰る故郷がないのさ。俺にとってはここが故郷みたいなもんだな』と言った。
夏季休院の半ば、私にとって嬉しい来客があった。赤国に帰ったサルトルが懲罰期間を終え、お忍びで私を訪ねて来てくれたのだ。私はサルトルを部屋に迎え入れ、まずは三大魔道士とは知らずに振舞っていた事を詫び、それから魔法学院に招待してくれた事にお礼を言った。
サルトルは相変わらずの物静かな物腰で答える。
「良いんですよ。いつかも言った通り、私は才能を埋もれさせたく無かっただけですから」
サルトルはそう言い、私が渡したアイスティーに口をつけた。私もそれに習って自分のコップを口に運ぶ。魔法で冷却されたアイスティーは私の喉と心を潤した。私は思わず、ふぅ、と気の抜けたため息をついた。
「ふむ。良く冷えていますね。どうやら魔法の習得には苦労していないようで、何よりです」
サルトルはそんな私の様子を見ながら、そう言って笑った。笑うといつもの陰のある雰囲気が無くなり、とても爽やかな青年に見える。
「ありがとうございます。私に講義抜きで付き合ってくれる師匠のような先生もいるので、魔法の勉強は順調です――
サルトルが和やかに微笑んでいるのを見て、私はかねてから気になっていた事を聞いてみる事にした。
――ずっと気になっていたんですけど…、サルトルさん、メリエさんが元気にしているか、とか…、わかりますか?」
メリエの事は、魔法学院に来てからも時々思い出していた。メリエが私の家を出たあの日の夜、月明かりの下で、私をまっすぐに見つめた瞳や、寂しげな表情が何故か忘れられず、私の心に深く印象を残していたのだ。
その前の晩のサルトルとメリエの密談の内容を盗み聞きした限り、(難しい話だったので詳しくはわからなかったが)メリエは亡命後もサルトルと連絡を取っているはずだ。
と、サルトルは一転して考え込むような表情になり、少しの間沈黙した。やはり言い辛い事なのだろうか。と、サルトルが口を開く。
「シンルさん、あなたはあの晩、メリエと私が話していた内容を盗み聞きしていましたね?」
言うと同時に、サルトルの鋭い眼光が私を貫いた。私は瞬間的に、しまった!と思った。こういう質問をすれば、そこまで連想されてしまうのは当然だったかもしれない。私は質問の仕方が軽率だったと後悔したが、もう遅い。図星をつかれた顔をしてしまった以上、表情の誘導尋問に引っかかってしまったのだ。もはや言い逃れは出来ないだろう。
「…すみません。でも、マリスさんの事は誰にも言っていないし、メリエさんが元気でいるかどうか、それだけ気になっていたんです」
しょうがなく、私は素直に認めた。メルタの地で赤国と元帝国の戦争があった事は魔法学院まで伝わってきていたが、そこにマリスの存在があった事は未だに誰も知らず、赤国がそれを同盟関係である魔法学院にも機密にしている事は明らかだった。私は、サルトルは私がそのマリスの事まで知っているかどうかを知りたいのだろうと予想し、それも含めて伝える。
と、サルトルは私に向き直って、真剣な表情で言った。
「メリエについては、デルフォイ共々元気にしている、とだけ言っておきます。盗み聞きは関心しませんが、シンルさんの事ですから、単純な好奇心だったのでしょう。私も軽率でしたし、非は問いません。しかし出来れば、あの晩に聞いた事…、特にマリスの事は、そのまま秘密にしておいて貰えませんか?」
「わかりました。でも、どうして秘密にしておくんですか?」
よせば良いのに、私の質問癖は治らない。
「パワーバランスの為。ただそれだけですよ」
サルトルは空気が斬れるような声で静かに言い放ち、私はそれ以上何も聞いてはいけない事を悟った。
私が俯き加減で黙っていると、サルトルは話題を変えようとしてくれたのか、懐から一冊の本を取り出して、私に手渡した。
「これは…?」
私は手渡された本のページをぱらぱらと捲りながら聞いた。内容は全て手書きで、分厚く、ページの隙間の所々から貼り付けられているメモの紙が飛び出していた。内容から、この本はどうやら魔法書のようだ。
「私が、魔法学院を離れてから書き溜めていた研究ノートの様なものです。そろそろ内容をまとめて、一冊の魔法書にしようと思っているのですが、その前にシンルさんに貸してあげましょう。まだ世に出ていないものですから、目新しい事もたくさんあると思いますよ」
「わぁ!ありがとうございます!」
私は尋常でない勢いで頭を下げ、お礼を言った。現金な奴だと思われてしまっただろうか、サルトルは苦笑する。と、私はふとサルトルの言葉の意味に気付いた。
「あれ?サルトルさんも魔法学院の元生徒さんだったんですか?」
『魔法学院を離れてから』という事は、つまりそういう事だろうか。
「そうですよ。六年ほど前に卒業して、そのまま赤国の魔道科に入りました。今は赤国王室の筆頭魔道士をやっています」
と、サルトルは事も無げに答える。
赤国は軍事を大統領が治め、政治を王が治める。昨今の赤国は軍拡が著しいので、国の最高権力者は殆ど大統領になってはいるものの、軍には、魔道士が所属する場所として魔道科以上の位は無い為、戦争時にはよく王室付きの魔道士が魔道科の大将、及び軍全体の参謀として従軍する。
つまり、王室の筆頭魔道士であるサルトルは、実質赤国最高の立場に居る魔道士だと言える。
私は、サルトルが何故魔法学院の研究施設を投げ打ってまで、既に同盟関係にある赤国に入ったのかが気になったが、聞いてはいけない気がして、その質問はどうにか飲み込んだ。
「私はあと一週間ほどこの辺りに留まります。国に帰る時にその本も返してもらうつもりなので、それまでに読んでおいてくださいね」
その後、サルトルは私の近況を一通り聞き、私の部屋を出て行った。私は最後にもう一度お礼を言い、一人になるとすぐにサルトルのノートを開いた。期間は一週間しか無いが、私にとってそれは充分な時間だった。本の内容を暗記するのは得意分野だ。
サルトルのノートは、さすがに六年前から書き始めただけあって、最初の方のページこそ、基本的な事と、今では魔法学院に知れ渡っている知識ばかりだったけれど、ページの中ほどから、魔法学院の図書棟に置いてあるどんな本にも書いていないような知識が詰め込まれていた。魔法に関して独特の解釈をしている部分も多くなり、私は数ページの内容を理解する為に数時間をかける事もあった。
後半になるにつれて、ノートの内容は魔法エネルギーについての考察が多くなった。それは、根元こそ魔法学院の地相学研究に近かったが、細部のほとんどが独自のものだった。無数の思考錯誤から導かれた数行の文章を、二重丸で囲ってあったり、取り消し線で消してあったりする。理解不能の図形や記号もあり、サルトルが魔法エネルギーについて、深く、複雑に考察していた事が伝わってくる。
サルトルのノートの最後の方に、こんな文が書き込まれていた。
『魔法学院で最近盛んな地相学研究は、私の魔法エネルギー研究とほぼ同義だが、私の方が一歩進んでいると言える。彼らは地相という、その土地毎に不変のエネルギーを想定しているが、私は魔法のエネルギーの源となる何らかの物体が存在し、どんな土地であろうが、その物体からの干渉によって魔法エネルギーが生み出される事を想定している。
私の魔法エネルギー研究の見地から言えば、地相学研究においてのその物体は、「大地そのもの」という事になるだろうか。もちろん、大地を持ち運ぶ事など出来ないので、このままでは土地毎に使える魔法に変化がある事に両者の違いは無い。
…しかし、大地から魔法エネルギーの源となる物体のみを抽出する事が出来るとしたら、どうであろうか。手のひらに収まるサイズに結晶化された、高純度の「大地」。それが現実の物となれば、どんな土地でも、全ての術式を完成させられるようになる。魔道士の力は飛躍的に上昇するであろう』
私は何度もサルトルのノートを読み返し、それからサルトルが何故私にこのノートを渡したのかを考えた。魔法書の後半が、未知の魔法エネルギーについての考察に集中していったのは、やはりメルタの地での戦いを想定しての事だろうか…?サルトルが私を赤国軍に欲しがってるからこのノートを渡した、とは思えなかったが、単純に私の成長を願ってこのノートを渡したとも思い難かった。
なぜなら、この本の後半大部分を占める魔法エネルギー研究の内容は、私がアリサドでヒーリングの術式を完成させた、その一件のイレギュラーによって否定されてしまっているような気がするからだ。
朝、ユリが南側の窓を開けると、海からの風が流れ込み、部屋を潮の香りで満たす。魔法学院は岬の先端に建っている為、夏は日差しをさえぎるものが無くこれでもかという程に暑いが、その代わりいつも海から気持ちの良い風が吹く。ユリはそれが好きだ。
今日も昼にはシンルに呼び出されるだろう。あの子は――ユリは、お気に入りの赤いノースリーブに着替えながら思い起こす――あの子は私に似ている。自分と同じように、魔法とは何の縁も無いところから、たった一人でやってきた少女。寂しさや不安もあるだろう。
そんなシンルに懐かれている事を、ユリは嬉しく思っていた。ユリは、自身が魔法学院に入学した当初の心細さとシンルの今の状況を重ね、自分でもわかるほどにシンルに肩入れしていた。
と、開け放した窓から一際強い風が吹き、カーテンがふわりと持ち上がった。ユリはそれにあわせて大きく深呼吸し、めいいっぱい背伸びをする。潮風が身体全体をめぐる。
「っよし!弟子が来る前に仕事を片付けないとな!」
ユリは誰に言うでもなく声を張り、朝食を取る為に部屋を出た。洗濯は昨日終わらせているし、掃除も完璧。昼になるまで、海で一泳ぎしてくるのも良いかもしれない。教授ばかりやって魔法の研究をしなくなっていたユリにとって、夏季休院の間、本当は仕事など無いのだ。ユリはくっくと含み笑いをしながら、食堂に向かって歩く。
「あーっ!何歳になっても夏休みって良いモンだね!」
その時、ユリが出て行った寮の一室、箪笥の引き出しが何故かひとりでに開いて、中に入っていた皮袋が宙に浮き、開け放された窓からふらふらと外に出て行こうとしていた。
「…無い、ないないないっ!」
サルトルにノートを借りてからちょうど一週間目の朝、私はそう連呼しながら部屋中を引っ掻き回していた。サルトルのノートが、何故か忽然と消えてしまったのだ。最初は、カスカが荷物の大半を置いたままで里帰りしていたので、床に散らばったままの怪しげな品々の下にでも紛れ込んでしまったのかとも思ったが、いくら探しても出てこない。そもそも、サルトルのノートは毎日読み終わった後に半分物置と化している私のベッドの隅に置いていたのだ。もちろん、昨日の寝る前にもちゃんとそこに置いていた。しかしそこに無く、部屋中を探しても見つからないとなると、もう検討もつかない。
夜の間に誰かに盗まれたのかもしれない、とも思ったが、魔法学院内でサルトルのノートがここにある事を知っている人は私以外に居ないし、玄関の鍵はちゃんとかけていた。考えれば考えるほど、何故無くなったのか理解が出来ない。私は途方に暮れてしまった。
と、玄関がノックされ、聞き覚えのある声が私を呼んだ。ユリ先生だ。私はノックの主がサルトルでは無かった事に多少安心しながら、ドアを開けてユリ先生を招き入れる。
ユリ先生は怪訝な顔つきで散かされた部屋を眺め、それから言った。
「シンル、何か欲しいものでもあったのか?」
ユリ先生の声は真剣そのものだったが、私はその質問の意味を図りかねた。
「欲しいもの…というか、探し物してたの」
と、不意にユリ先生は私の両肩を掴んで、まるでわが子を諭すような顔になった。
「いや、そういう言い訳なんてしなくて良いんだ。わかった。あのな、欲しいものがあるなら俺に直接言ってくれれば、一ヶ月待たなくても金は渡すよ。あのお金は元々お前のものなんだから。だから…」
「はい…?」
私が困惑しているのにも気付かず、ユリ先生はさらに真剣な声色で続ける。
「学院長に頂いたお金を勝手に持っていくなよな。それって泥棒になっちゃうし、俺だってびっくりするだろ」
私はユリ先生の言っている意味を理解するのに三呼吸ほど必要だった。つまり、ユリ先生は自分の部屋にまとめて預かっていた私の生活費を、私が勝手に持ち出したと思っているらしい。
「えーっと、お金ならまだ余ってるくらいなんですけど…。勝手に持ち出したりなんてしてないです」
私は物置ベッドを探って、先月手渡された皮袋を手に取ってユリ先生に見せた。ユリ先生は、返答が予想外だったのだろうか、きょとんとしながら皮袋を受け取って、しげしげと中を覗く。
「ん…。んー?」
「というかそもそも、私はユリ先生がどこにお金を仕舞っていたのかも知りませんよ」
ユリ先生はまだ皮袋の中を覗き込んだままうんうんと唸っている。それをいくら眺めても、中に入っているのはお金だけだし、そこからは何もわからないと思うのだが…。
「ユリ先生…、もしかして失くしたんじゃないですか?」
「え、えええっ!?」
まるで思いつかなかったという様に、ユリ先生はオーバーに驚く。その拍子にユリ先生の手から皮袋が離れて床に落ち、どさり、と重い音を立てた。
「う、疑ってごめんな!どこかに隠してるかもしれないから、まだ疑いが晴れたわけじゃないけど!」
時々、ユリ先生は明るい声でとても失礼な事を言う。自覚は無いのだろうか。
「え、それってまだ疑ってるんじゃないですか。でも、ちょうど良かったかもしれない。私の疑いをちゃんと晴らす為にも、私と一緒に探し物、しませんか?」
「あぁ、そっか。シンルも何か探し物してるんだっけ?」
さっきはそれを否定しておいて、ユリ先生はあっけらかんとした声で言う。
「はい。私はある人から借りた本を探してるんです。もうすぐ返さないといけなくて…」
ユリ先生は私が言い終わる前に、右手で私の髪をぐしゃぐしゃして笑った。
「シンルはおっちょこちょいなところあるよなぁ!本なんてどうせその辺にあるだろうし、よっし、俺に任せとけよ!」
突っ込みどころはいくらでもあるけれど、人手が増えるのは悪い事じゃないから何も言わないでおこう。私は髪を手櫛で軽く整えなおしながら、そう思った。
ただ、この一つだけは、探し物をする前に突っ込んでおかなければならない。
「ユリ先生、探し物する前にまず着替えませんか」
一体どういう経緯だったのかはわからないが、ユリ先生は何故か派手な水着を着ていた。
もう時刻は昼になろうかという頃、私とユリ先生は、私の部屋にへとへとになって座り込み、もう半分諦めかけていた。あの後、まず着替えついでにユリ先生の部屋を二人で探し、それから私の部屋にも戻って探したが、どちらの部屋からも、二つの探し物が出てくる事は無かった。
「シンル~。本ってどんなのだよ。もしかして、落としたのを誰かが拾って、図書棟に届けちゃったんじゃないの~?」
ユリ先生はベッドの組み木を背もたれにして座り込み、私が差し出したアイスティーをがぶ飲みしながら言う。これでもう三杯目だ。
「うーん、この部屋から外に持って出たのは、内容を確かめるために実験したりした数回だけだし、そもそも図書棟にあるような印字された本じゃないんです。ユリ先生こそ、ホントは誰かに盗られちゃったんじゃないんですか?」
私は両足を床にだらんと投げ出したまま、答える。乾いた汗が肌に張り付いて気持ち悪かった。
「いや~、窓はいつも開けっぱなしだったけど、外は断崖だろ?飛翔術が使える奴なんて、今学院に残ってないだろ。ダメだ~。もう検討つかね~」
ユリ先生の言う通り、夏季休院の今、魔法学院に残っているのは研究生ばかりで、研究生の中には魔法が使えない者も多い。そもそも、魔法学院と言っても、通う生徒達の中で魔法が使える者は約半数程度で、残りは魔法に関する研究や知識を得ようという目的で通っているものなのだ。断崖を打ち抜かれて作られた寮棟の一室の窓という、強い潮風の吹く中の小さな目標を正確に目指せる程の高度な術を扱える魔道士は、今、魔法学院には残っていないはずだ。
私達は八方塞な気分で、夏の熱と湿気に奪われた体力をアイスティーで癒しながら、当ての無い会話をするしかなかった。
「ふむ、大体の話はわかりました。しかし休院中と言えども、この程度の術を扱える人すら居ないとは、いささか無用心では?」
突然、どこからか男の声が響いた。私はびっくりして声の主を探して部屋を見渡したが、どこにも誰も居ない。
と、ユリ先生がぎょっとした顔で窓の外を見ている事に気付き、私も窓に目を向ける。
目を向けた先、窓の外から一メートルほどのところに、サルトルの姿があった。サルトルは両肩から生えた大きな羽根で羽ばたいて、その場に浮かんでいる。その羽は半透明で、振り下ろす時は力強く風を掴む翼の形をしているのに、振り下ろし終わると一瞬で無数の水の粒に解れ、キラキラと陽光を反射しながら、サルトルの上部へと移動し、そこでまた翼の形を作って、風を掴み、振り下ろされる。水翼の術式、それも今まで見た中で一番美しく、大きく整った翼だ。
私が感動している間に、サルトルは窓枠に掴まって、水翼の術式を解除した。翼はエネルギーを失ってただの水に戻り、崖下の海へと還っていく。
「失礼かもしれませんが、ここからお邪魔させて頂きますよ」
返答を待たずして、サルトルは両手をふわりとなびかせながら軽やかに跳躍して部屋の中に入った。その滑らかな一連の動作が、まるで『ヒーロー参上!!』という感じで、妙に芝居染みて見えたのは気のせいだろうか。
「お前…、何でここに居るんだよ…。というかどこから入って来てんだよ」
サルトルが部屋に入ると同時に、ユリ先生が嫌悪感に満ちた声で言った。私は初めて聞くユリ先生の恐ろしい声色にもびっくりしたが、それよりも、二人が知り合いだという事に驚いて、話に入るタイミングを失ってしまった。
「久しぶりですね。ユリ。私はれっきとした用があってここに居るのですよ。ユリこそ、そろそろ私のところに来る気にはなりませんか?」
サルトルは挑発的に微笑みながら言う。サルトルのそんな表情も始めて見る。事情の飲み込めない私は完全に置いてけ堀だ。
「誰がお前のところなんて行くかよ。三大魔道士なんて呼ばれ始めたからって調子に乗ってるのか?」
ユリ先生はそう言いながら、懐から術式用に愛用している黒いグローブを取り出して装着しようとしている。それを見て、サルトルの方も臨戦態勢に入ったのだろう、周囲に魔力の強張りがあるのがわかった。
いつの間にやら、これは一触即発という状況になっているのだろうか。私は急いで二人の間に入って制した。
「えっと!ユリ先生、私が本を借りていたのはサルトルさんなんです!だから取りに来てくれたんです。二人とも落ち着いてください!というか、二人は知り合いだったんですか?」
私が早口に捲くし立てると、ユリ先生は我に返ったのか、グローブを仕舞ってくれた。
「知り合いというか、生徒時代の同期だよ。何だ、サルトルから借りた本だったなら、もう探さなくてもいーぞ。どうせろくな本じゃないしな」
ユリ先生は忌々しそうに言って、サルトルを睨んだ。どうやら相当仲が悪かったようだ。
「まぁ同期と言っても、格の差は歴然でしたがね。あの本の内容もユリには理解出来ないでしょうから、確かにユリにとってはろくな本ではないかもしれませんね」
サルトルはなおもからかうように言う。ユリ先生は仕舞いかけたグローブを握り締め、なんと表現して良いかわからない程の複雑な表情をした。ただ、怒っている事だけはわかる。
いったい学生時代の二人の間に何があったのだろう。私は、もしかすると私とラニアも傍から見てこんな風に見えるのだろうか、と思って、内心で反省した。これは、はた迷惑極まりない。私は二人のいがみ合いはとりあえず無視して話を進める事にした。
「サルトルさん、本を無くしてしまってごめんなさい。今日中には無理かも知れませんが、一生懸命探しますからもうちょっと待ってもらえませんか?」
私がそう言うと、サルトルは一瞬、まるで今まで私が居た事も忘れていたような驚いた表情で私を見て、それからいつもの調子で答える。
「ああ、その本の事ですが、どうやら探し物で困っているのはあなた達二人だけでは無いようですよ。先ほど、学院の掲示板を見てきたのですが、探し物のチラシが無数に張り出してありました。
ところでユリ、覚えてますか?私達の時代にも、魔法学院で同じような事件があった事を」
「え?…あ、あったっけな?そんな事」
ユリ先生は、先ほどの怒りをどこに持っていけば良いのかわからなくなったのか、突然の質問に焦った様で、しどろもどろに答える。
「ありましたよ。私達の卒業前ぐらいでしたかね。今と同じような原因不明の小物紛失事件が頻発して、結局謎は解けず終い、『学院の怪談』とまで言われたじゃないですか」
ユリ先生は思い出したのか、両手をぽんと叩いた。
「あ、あぁ、あったあった!そういえば似てるな」
それを聞いたサルトルは満足げに頷いて、ポーズを取るように両手を広げる。
「ええ、間違いなくあの頃と同じ種類の事件でしょう。これはチャンスですよ!あの頃、学院随一の成績を誇った私達二人がどんなに頑張っても解けなかった謎にもう一度挑戦出来るのです!さぁ!三人で『学院の怪談』に挑戦しましょう!」
私はサルトルの意外な一面に言葉を失いながら、何かの演説のようなサルトルの雄雄しい声を聞いた。今まで気付かなかっただけで、実はサルトルも相当愉快な種類の人なのかもしれない。
「そんな事言って、何か手がかりとかあんのかよ?これが前と同じ事件なら、俺はまったく当ての一つも無いぞ」
ユリ先生はあまり乗り気では無いらしく、ぶっきらぼうに言った。
「ふふふ…、卒業から六年、私は研究をほったらかしにして教授ばかりやっていたあなたとは違うのですよ。この『学院の怪談』、どうやって多数の物を証拠も残さず消し去ったのかは謎ですが、どんな方法であれ、魔法が使われている事は間違いありません。と、いう事は、現場には一つの証拠が残されているはずです。シンルさん、あの本を読んだあなたならわかるのでは?」
「魔力痕、ですか?」
私は、本の内容の中に思い当たる節があったので、答える。それは魔法エネルギー研究の副産物として生まれた新技術だった。
「すばらしいっ!その通りです!魔力痕は魔法の使われた場所に二、三日は残ります!幸い、まだ事件は起きたばかりでしょう。さあ早速、ここに陣を敷きましょう。シンルさん、私の本を読んでいるあなたには、助手として手伝っていただきますよ。さあ!」
サルトルは身体を可笑しな角度に捻じ曲げながら嬉しそうに叫ぶ。やはり、若干のキャラクター崩壊を起こしているような気がしてならない。
「ねぇ…、ユリ先生、サルトルさんってあんな人でしたっけ?」
私はユリ先生のわき腹を小突き、小声で聞いた。
「何言ってんだ。元からあんな奴だよ。見てて色んな意味で寒気がするだろ?気持ち悪いよな」
とにかくこうして、私達三人は『学院の怪談』に挑む事になった。
ラニアとの一件から、ラニアは私への興味を失ってしまったようだったが、逆に私の方はラニアに対して強烈な競争意識を持つようになっていた。
何故そんなに腹が立ったのかわからないが、私はこんなに負けず嫌いだったのか、と自分でも驚いたほどだった。とにかく、私は講義でラニアと顔を合わせる度に、ラニアよりも優秀な生徒として振舞おうと躍起になっていたが、ラニアは本当に優秀で、どの教科でもなかなかチャンスを見出す事が出来なかった。
その数少ないチャンスが訪れたのは、本の虫な私にとって一番得意な教科、歴史の講義中だった。あまり人気のない講義なのか、講堂には20人ほどしかいなかったが、私の斜め前の席にはラニアの姿があった。
男性の、腰の曲がった老教授が、教壇の前でいつものようにのんびりと話している。
「…と、いう事で、皇国に発祥した新しい宗教はルバイによって広められ、現在は世界中に広まっているのです。そのルバイがまとめた福音書には主の起こした奇跡が数多く描かれていますが、その中には魔法の効果ではないかとされている節がいくつかあります。例えば、第八章十三節…、誰かわかる人はいますか?」
老教授が言い終わると同時に、三人の生徒が手を挙げた。その中に、ラニアの姿もあったので、私もいつになく高く手をあげた。「ルバイによる福音書」なら、村の家にもあったし、内容はほとんど暗記している。しかし教授はラニアを指した。私は落胆しながら手を引っ込める。
「主が、腕をなくした女に新しい腕を与える様子が描かれていたと思います」
ラニアは立ち上がり、得意げに胸を張って言った。老教授が嬉しそうに笑う。
「ふむ、まぁ良いでしょう。正確には、第八章十三節、主は女を憐れみ――」
ここで、私はだめもとでもう一度手をあげてみた。老教授はそれに気付いたらしく、言葉を止めた。
「ふむ、シンル君、この続きがわかりますか?」
私は勢い良く立ち上がった。視界の隅にラニアがぎょっとした顔で振り向くのが見える。
「第八章十三節には、『主は女を憐れみ、新しい手を与え給うたが、それがまやかしであることを知ると女はひどく悲しんだ』…とあります」
私がすらすらと答えると、周囲から、おぉー、という声が上がった。
「すばらしい!完璧です。確かシンル君はまだ14歳でしたね。それから、非常に惜しかった、ラニア君も16歳だったかな。若い人々が古い歴史に興味を持つ事はすばらしい事です。私もたいへん嬉しい」
老教授は拍手と共に私を称えてくれた。私は青い顔で私の方を見ているラニアに対して、つん、と少し顎を浮かせて一瞥し、ニヤリと笑ってやった。
「お前、あれくらいで勝ったなんて思うなよ」
その日、食堂でラニアは隣に座ってきた。私は生意気なラニアに一泡吹かせてやったと思っていたので、上機嫌で答える。
「あれくらいって、歴史の講義の事?」
「俺だって暗誦しようと思えば出来たんだからな」
「じゃあすれば良かったのに。第四章三節、わかる?」
私はなおも挑発的に言った。ラニアが本当に暗誦出来ていたとは思えない。案の定、ラニアは黙ってしまった。
「……、お前、意外と性格悪いな」
ラニアは歯切れ悪く小声で言った。
「性格悪いのは勝ち負けなんて気にしてるラニア君の方じゃないの?私は勝ったとか思ってないもん」
その実は大いに気にしているところなのだが、私は涼しい顔で嘘を吐いた。よほどプライドを傷つけられたのか、ラニアは右手に肉の刺さったフォークを握り締めたまま、硬直してしまった。
「と、と、と…」
私は流石に悪い気がして、話題を変えようと思ったが、どうやらもう、時既に遅し、らしかった。ラニアは顔を真っ赤にしてどもりながらも、私に言い放った。
「とにかくっ、お前より俺の方が成績良いのは間違いないんだからっ!今回の事で調子に乗るなよ!」
成績の事を口に出されて、私もまた頭に血が上ってきた。確かに、まだ成績ではラニアに敵わない。
「でも成績だって追いついてきてるし、すぐに抜いてやるんだから!」
話題を変えようと思った気持ちはどこへやら、私は勢いで言ってしまい、結局、食事の間中、子供っぽい言い合いをしてしまった。
それから私とラニアは事ある毎に張り合った。成績や、魔法の実技はもちろん、私が図書棟で予習復習をしているのを知ると、ラニアも図書棟についてきたし、ラニアが実技で私の使えない魔法を使っているのを見ると、私もユリ先生に頼み込んで、講義が終わった後に練習させてもらい、伝授された魔法をラニアの前で使って見せたりした。常にラニアの方が一歩前には居たが、私はその悔しさをバネにしてラニアに喰らいついていた。
もう一年の講義も残り少なくなった三月のその日も、私はユリ先生の個人授業を受けていた。窓から夕日が差し込んで、教室はオレンジ色に染まっている。
「友達が出来て良かったなぁ、しかも男の子か」
「友達とか、そんなのじゃないです」
ユリ先生は床に描かれた陣の説明をする合間に、おちょくるような声でそう私に言った。私はすごい勢いで首を左右に振ってそれを否定したが、ユリ先生はなおもニヤニヤしながら私を見ている。私はなぜか慌ててしまった。
「本当にそんなのじゃないんですよ。本当に最低なヤツなんですから!ちょっと私より入学したのが早かったから出来るだけなのに、それを自慢するみたいに私の前でするんですよ。いっつも」
「いやいや、シンルもラニアも掛け値無しに優秀な生徒だぞ。お前らはまだ講義でやってない事も勝手に勉強しちゃってるしな。もう一年じゃあ二人に追いつける奴は居ないんじゃないのか?」
確かに、ラニアと張り合っているうちに、私の成績はいつの間にか学年内のトップクラスになっていた。しかしラニアにはまだ負けている。
「第一、この陣だって別にまだ覚えなくても…」
ユリ先生は左手の甲の部分で床に描かれた陣をコンコンと叩きながら言った。
「でもラニアは出来るんです!だから教えてください!」
私は無意識の内に着ている服の裾を両手で握り締め、顔を真っ赤にして言った。ユリ先生は、苦笑いしながら首を振った。
「わかったわかった。ったく若いなぁ。素直じゃないし」
「素直じゃないってどういうことですか」
「はいはい、気にしないで集中集中!」
私はなんとなく変な勘違いをされていそうで納得がいかなかったが、ユリ先生はそのまま陣の説明に戻ってしまったので、それ以上は何も言わなかった。陣の説明が終わり、私も何とか扱えるようになると、ユリ先生は思い出したように言った。
「ところで、一年の特待研究生はシンルとラニアだけだろう?今日、ハルトゼイネル学院長が旅から帰ってきたから、多分近いうちに二人共呼び出されるぞ。この時期、特待研究生は学院長に研究成果を発表しないといけないからな。お前らはまだ学生の身分だから、研究成果の発表はないけど、きっと何か課題を出されるだろうな。そんなにラニアをライバル視してるんだったら、直接対決の良い機会じゃないか?」
私は思わず歓声をあげた。どんな課題を出されても、絶対勝ってやる。
ユリ先生の言った通り、次の日に私とラニアは学院長に呼び出された。私が院長室の扉をノックすると、中から、入りなさい、という声が聞こえた。私はごくりと唾を飲み込んで、扉を開く。
院長室は教室ほどの広さで、真ん中に大理石の机と、それを囲むように高そうなソファが置いてあった。南側の壁には大きな楕円形の窓があり、窓がある場所以外の壁は全て天井まで届く本棚が敷き詰められていた。そしてその本棚にも無数の本が敷き詰められている。私は思わず瞳を輝かせた。
「シンルさん、良くいらっしゃいました。ここの生活には慣れましたか?」
学院長は私に向かってソファに座るように手で合図をしながら、いつも通りののんびりとした声で言った。窓の傍に立って外を見ている学院長以外に、人は居ない。ラニアはまだ来ていないようだった。私はふかふかのソファに座りながら答える。
「はい、もうずいぶん慣れました。学院に招待していただいてありがとうございます。それに、お金まで」
「ほうほう、良いんですよ。サルトル君の言ったとおり、シンルさんは素晴らしい才能を持っていたようですし」
学院長はそう言いながら、指先をすっと大理石の机に向けた。すると、机の上に置かれた藍色のガラス瓶がふわりと浮かんで、同じく机の上に置かれたコップに中の液体を注いだ。コップに充分に液体が注がれると、今度はコップが浮かび上がって、私の目の前に移動した。
「まぁ飲んでください。それから、ラニアさんが来る前に少し聞きたい事があります」
「はい、なんでしょう?」
私は宙に浮かんだコップを受け取りながら答えた。湯気と、ハーブの良い香りがコップから漂っている。
「サルトル君から聞いたのですが、シンルさんはアリサドの村に住んでいたのですね?」
「はい。アリサドの東にある小さい村です」
「その村でヒーリングの術式を発動したと聞いたのですが」
長い白髪の奥で学院長の眼がきらりと光った。
「はい。でも偶然に一度出来ただけで、あとは何度やっても出来ませんでした」
私は慎重に答えた。やはり、私が特待研究生として迎えられた理由はそこにあるのだろうか。学院長は一拍置いて、話し始める。
「ふむ…。しかし一度だけでも、すごい事です。それは今の私にも出来ない事なんですよ」
「ありがとうございます。…でも、自分でもどうやったのかわからないし、本当になぜ出来たのか私が聞きたいくらいなんです」
私は謙遜ではなく本心でそう言った。本当にあの時魔法が発動した理由なんて、今でもわからないし、ただ必死に詠唱していたら発動した、としか考えようがない。
「ではシンルさんは、なぜ、私達が普通の人とは違い、魔法を使えるのだと思いますか?」
先ほどから、学院長の声はいつになく真剣なようだった。予想外の質問に、私はハーブティを飲んで間を作り、急いで考えを巡らせたが、良い答えは思い浮かばなかった。
「……、考えた事がなかったです」
「私の考えではね」
学院長はそこで一端言葉を切って窓から離れ、机を挟んで向かい側のソファに座った。学院長の巨体が深々とソファに沈む。
「私達魔道士は、神様の真似事をしているだけだと思うのです。私はこの世界中を旅して、魔法以外にも様々な奇跡を起こしている人々が居る事を知りました。別の時代や次元を見る事の出来る者や、過去と未来の全ての知識を持つ、不老不死の者…。それらの人々も、もしかしたら、偶然神の能力の一部を授けられ、神の真似事が出来るようになったのかもしれない、と思うのです」
「つまり、学院長は神様が存在すると考えているのですか?」
私は宗教等に関しては懐疑的な考えを持っていたので、その言葉には少し納得がいかず、そう聞いたが、学院長はいたって真面目に答えた。
「そうですね。しかしそれは、皇国の宗教にあるような、民衆を助ける『全能の主』という存在とは少し違う気がします。私が考えた所では、神はアブクードの過去から未来の全ての歴史を知り、地相の力を自由に引き出してどこにいても全ての魔法を使える。しかし、神はアブクードの次元とはまったく別の次元に存在していて、私達の歴史に直接関与する事は出来ない。そのような存在だと思うのです」
「私達の歴史に関与できないなら、アブクードの歴史を知る事に何か意味はあるのですか?」
「ほうほう、シンルさんはなかなか鋭いですね。この先はまったく根拠のない仮説ですが、神は、アブクードの歴史を何らかの形で必要としているのかもしれません。神が時々私達に不思議な力を与えるのも、その力で歴史が動く事を必要としているからかもしれません」
私はようやく学院長の言いたい事がわかってきた。
「つまり、私がアリサドでヒーリングの術式に成功したのは、もしかしたら神様が私に特別な能力を与えてくれたからかもしれない、という事ですか?」
「ほうほう、その通りです。それでも私はその力がシンルさんだけの特別なものだとは思っていませんよ。研究していけば、私達も地相の力を借りずに魔法が発動できるようになるかもしれません。そうやって私達は、なぜアブクードが存在するのか考え、神に近づいていくべきなのです」
出会った時から得体の知れない人だと思ってはいたが、やはり、この学院長の話は、壮大過ぎて私には少し理解し辛い。私がどう答えるべきか困っていると、タイミング良く院長室のドアがノックされた。学院長が「入りなさい」と言う。
ラニアと私は怒っていた。この時初めて、二人の意見が一致したのではないだろうか。その意見とはつまり、
「「こんな課題、最悪!」」
早朝に魔法学院の門を出てまだ一時間も経っていなかったが、私達は既に口喧嘩を始めていた。口喧嘩の発端は、お互いの装備についてだった。
「とにかく、そんな軽装で何かあったらどうするの?あの渓谷には魔獣だっているんでしょ?」
ラニアは巾着型の袋を肩に背負い、腰に小振りの銅剣を提げている以外は、ほとんど普段と変わらない格好だった。
「だから俺は動きやすい方が良いんだって!シンルは荷物が多すぎなんだよ。呪文書もそんなに持って来ても、今回はただのお使いみたいなモンなんだから絶対使わねぇよ。歩くペースも落ちるし、良い事ないだろ」
対する私は、陣作成用の魔法のマーカーから、数々の呪文書、食料や望遠鏡などの入った大きなリュックを背負っていた。でも、ちゃんと夜には無事目的地につけるように考えたつもりだし、その上で何か事故があった時にも対処できるよう、最善を考えて選んだ荷物だった。
「お使いって、ラニアは何でも簡単みたいに言うけど、私達二人とも初めて行く場所なんだから、もうちょっと慎重になった方が良いよ!」
「へぇへぇ、すみませんね。もうお前が『荷物重たいよー』って泣きついてきても、絶対持ってやんねぇかんな」
「泣きついたりしませんから、けっこうです!」
売り言葉に買い言葉、ハルトゼイネルの地を歩く私達の口喧嘩が終わる気配は、もちろん無い。
私達の仲が悪い事を知ってか知らずか、学院長が私達二人に出した課題は、『二人で協力して、巨神兵の涙を取ってくる事』だった。巨神兵は魔法学院から南に歩いて一日ほどの渓谷に、はるか昔から何をするでもなく佇んでいる。巨神兵は山よりもはるかに大きく、その姿に誰もが畏怖を覚えるものの、それが何の為に存在しているのか誰も知らない為、巨神兵は『神の忘れ物』とも言われていた。
ただその巨神兵は、満月の夜にだけ(これまた理由はわからないが)空を見上げて泣く。その時に零れる涙は魔法の触媒として価値が高いので、魔法学院は満月になる度に少数の研究生を巨神兵の渓谷に派遣していた。今回は、それを二人だけで取って来い、というわけだ。
最初のうちは南へと歩きながらも口喧嘩に余念が無かったが、太陽が真上に来る頃になると、私は歩き疲れで口喧嘩をするのも億劫になってきてしまった。少しくらい休憩をとっても、夜になるまでには充分余裕を持って巨神兵の渓谷に到着出来そうだったが、ラニアは休憩を取る気がないらしく、ずんずんと進んでいく。私も、何かに負ける気がして、休憩を取ろうとは言い出さなかった。
結局、私達は休憩を取らずに渓谷の麓にある小さな街まで来てしまった。その頃にはもう私の脚はパンパンになっていて、もう立つだけでも痛いくらいだったが、それを言うのは悔しいので、私は何も言わずに休憩した時に食べるつもりだったお弁当を開いて食べた。もうすっかり冷めてしまったお弁当は、あまりおいしくなかった。ラニアは食料を持ってこなかったらしく、出店で調理された肉だの野菜だのを買って食べていた。食事は街の外れにある大きな木の植えられた広場で並んで食べたが、ラニアもさすがに少し疲れたらしく、ほとんど会話はなかった。私の気分は最悪を通り越して、もう何もかもどうでも良くなっていた。
食事が終わっても、すぐに渓谷を目指して出発しよう、と言う気は起きなかった。ラニアもどうやらそう言う気は起きなかったようで、二人とも脚をだらんと伸ばして地面に座り込んだまま、しばらくぼんやりと広場の大きな木を眺めていた。太陽は少しずつ落ちてきていたが、春先のぽかぽかした陽気が気持ち良い。大きな木の枝々に小鳥がとまり、ピィピィと囀っている。
私は突然、なんだか猛烈に恥ずかしくなってきてしまった。そういえば、特定の男の子とこんなに長く一緒にいるのも、二人きりで旅をするのも、初めてだ。そういう考えが次々と頭をよぎって、この沈黙すらもなぜか痛々しく感じてしまう。何か言い出そうと思うが、何も思いつかない。
「俺も弁当持ってきて、途中で休憩すれば良かったかな」
と、ラニアが唐突に言った。それは何故かいつもの憎まれ口とは違う、私を労わるような優しい声で、私はますます恥ずかしくなってしまった。
「そ、そうよ、そうすればこんなに疲れなくてすんだのに!」
「いや、ごめん」
予想外に謝られてしまい、私は恥ずかしさがピークに達してそれ以上何も言えなかった。出発してからずっと最悪の気分だった事は、いつの間にか忘れてしまっていた。
私達は日が落ちる前に渓谷に入り、月が顔を出す頃には何事も無く巨神兵の前に着いた。予定通りにいけば、深夜になる前には巨神兵の涙を回収し、来た道を帰って早朝の3時には麓の街の宿で休める。
巨神兵は、渓谷の中心で本当に静かに佇んでいる。足元まで来てしまった今はもうその全貌は見えないが、実は麓の街に入った時からその姿は見えていた。麓の街から見た巨神兵は、渓谷のどの山よりも大きな、赤茶色の肌をした人型の生物だった。巨神兵はぴくりとも動かず、ただそこに佇んでいる。雲にも届きそうな頭部は、鉄のヘルメットのようなもので覆われていた。もしかすると、生物ですらないのかもしれない。
私達は巨神兵の足元に陣を敷いて、満月が空に浮かぶのを待った。巨神兵に動きがあれば、陣を発動してその場からいったん離れる。うまくいけば、巨神兵から落ちてきた巨大な涙は、陣の効力によって、周囲の大気ごと一瞬にして凍りつくはずだ。
ラニアは常に周囲を警戒していたが、どうやら渓谷の魔獣は巨神兵の周囲にはまったく近寄らないらしく、辺りはしんと静まりかえっている。私はランプのすぐ傍に座って、巨大な樹の根元のような巨神兵の脚を眺めながら、学院長の言った神様の存在もあながち嘘ではないのかもしれない、と考えていた。
突然、脚が震えるように揺れたと同時に、真上から、地響きのような低い音が響いた。巨神兵の泣き声だ。
私はランプを手にとって、ラニアの方を振り向いた。ラニアは素早い動きで私が用意していた陣の発動用のマーカーを手に取っていた。
「ちょっと!私がやろうと思ってたのに!」
思わず私はそう叫んだが、ラニアは私が言い終わる前に陣に最後の一筆を入れた。瞬間、完成した陣は輝きを放ち始める。
「そんな事どうでも良いだろ!巻き込まれる前に離れるぞ」
ラニアはそう叫んで、走り出した。私もこの悔しさはひとまず置いておく事にして、その場を離れる。
私達が充分な距離をとってからしばらくして、空から巨大な雨粒のような巨神兵の涙が振ってきた。そしてその涙は、陣の範囲に触れた瞬間、ピシッ!という音と共に凍りつき、地面に転がる。
「よし、うまくいってる」
ラニアは満足そうにその様子を眺めて言った。
「だから!なんでラニアが一人でやったみたいな顔してんのよ」
「実際、俺一人でも出来てただろ。まぁシンルだったら陣を発動できたかどうかわからないけど」
「マーカーも持ってきてなかった癖に!この作戦考えたのだって私だし!」
「別にこんな手の込んだ事しなくても方法はいくらでもあんだよ!」
巨神兵の慟哭が響く中で、私達はそれよりも大きい声で口喧嘩を始めてしまった。と、そこに一羽の鳥が急速に近づいてきた。しかし口喧嘩に夢中な私はそれに気付かない。
「痛っ!」
その鳥は私の腕を突付いた。私は思わずランプを取り落としてしまい、ランプの灯が消えて辺りは急に暗くなる。
「バカ!ランプ落とすなっ!」
「違っ、何かいる!」
「わかってる!」
私よりも一瞬早く気付いたのか、ラニアはそう言うと、刹那の間に腰から銅剣を引き抜き、近くの木に向かってまっすぐに掲げた。銅剣の切っ先、月明かりの中で、木にとまった鳥の眼が不気味に光っていた。その光は二つではなく、鳥の頭部に放射状に存在している。
「複眼の梟か。こいつは使い魔の一種だ。近くに召喚した魔道士がいるかもしれない」
「えっ!?」
巨神兵の慟哭の中、私は辛うじてラニアの言葉を聞き取り、混乱しながらも辺りを見回した。幸い、満月なのでランプが無くてもある程度視界が利く。しかし、周囲にそれらしい人影は見当たらない。
「野生じゃないの!?」
と、私が叫んだと同時に、木の枝に止まっていた複眼の梟が翼を広げ、私を目掛けて飛び立った。複眼の梟は、眼と同じく光る翼で空を切るように滑空し、急速に私に迫る。私は驚いて身構えたが、複眼の梟は私ではなく、足元に置いていた私のリュックを掴んでまた飛び立った。リュックは複眼の梟と同じほどの大きさがあったが、複眼の梟はそれを軽々と空へ運ぶ。
「間違いなく野生じゃないな。巨神兵の涙を狙って来てる」
ラニアはそう言いながら左手に銅剣を構え、巨神兵の反対側に逃げようとする複眼の梟の方に走り出した。そして接近する数秒の間に右手で翼破弾の印を結ぶ。
「落ちろっ!」
ラニアは右手を空に掲げて叫んだ。その瞬間、ラニアの手のひらから光弾が放たれた。光弾は夜空に光の尾を引きながら複眼の梟に迫り、軽い破裂音と共に爆ぜた。無数の魔針が複眼の梟の翼に突き刺さり、複眼の梟はバランスを失って墜落する。
ラニアはすぐに複眼の梟の落下点に追いつき、銅剣を右翼に突き立てた。私も急いでそこに駆け寄る。地面に磔にされた複眼の梟は、ぶちまけられた私の荷物の上に羽毛を散らしながらバタバタともがいていた。
「小細工はこれくらいにして、出て来いよ!」
ラニアが叫ぶと、20メートル程先の岩場から、黒衣を着た大柄な魔道士が現れた。ほとんど人型だが、粘性の肌が月明かりの下でぬらりと光り、黒衣の下からは、脚ではなくミミズに酷似した一本の尾が伸びている。赤竜人族だ。
「やれやれ、子供だと思って侮ってはいかんな。それにしても魔法学院は何を考えているんだね。今回は君達二人だけか?」
魔道士はかさついた声で言った。どうやら、巨神兵の涙を欲しているには違いないようだ。私は初めての、そして予想外な戦闘に緊張しながらも身構える。
「とにかく、君達二人だけでは役不足だ。おとなしく巨神兵の涙を渡してくれないか?いつもいつも魔法学院の奴らに独占されていては、私も困るのだよ」
魔道士はそう続けたが、その言葉とは裏腹に、剥き出しの殺意がここまで伝わってくる。私はラニアと目配せをしてお互いの意志を確認した。もちろん、課題を失敗するわけにはいかない。つまり、巨神兵の涙は渡せない。
どうやらこの魔道士は、普段から巨神兵の涙を狙ってはいるが、いつもやってくる四、五人の研究生の前には姿を現していない。今回は子供が二人だけだったので姿を現したのだろう。そう考えると、大した魔道士ではないはずだ。
「ラニア、まず私が前に出るから…」
と、私達は二言、三言、小声で話し合って作戦を決めた。成績を競い合い、出来るようになった魔法を相手の前で自慢し合っていたおかげで、お互いに出来る事は把握している。
「どうやらやる気のようですね…?」
その様子を見た魔道士は、そう言って不気味な異国の言語で呪文を唱え始める。先ほどの複眼の梟と唱えられている詠唱文の傾向から、召喚魔法なのは間違いない。
私は足元に散らばった荷物から魔法のマーカーを拾い上げ、そのついでに石ころもいくつか拾って走り出した。ラニアは複眼の梟から銅剣を引き抜き、胸に構えて魔力を集めながら、私から一拍遅れて走り出す。
――火精の祝福 胎動せし溶岩の芥 疾れ――
私は魔道士に向かって走りながら詠唱した。私の手のひらから、先ほど拾った石ころが炎を纏って飛び出す。こんな初歩的な呪文で致命傷を与える事は出来ないだろうが、とにかく敵に召喚呪文を発動されれば勝ち目が薄くなってしまうので、時間稼ぎには丁度いい。
やはり、炎つぶては魔道士の右腕によって軽々と弾かれてしまった。魔道士はニヤリと笑って、さらに詠唱を続ける。私と魔道士の距離はもう5メートル程になっていたが、詠唱は終わりに近づいているらしく、魔道士の頭上の空間は歪み始め、そこから肉の崩れかけた熊の姿が覗いていた。
私は焦りながらも、立ち止まり、魔法のマーカーを使って胸の前に小型の陣を描き始めた。魔道士はそれを見て、左腕を私の方に向ける。その左腕から、赤竜人族特有の無数に枝分かれした触手が私に向かって伸びた。ものすごく気持ち悪いが、ここで引く訳にはいかない。この陣は相手が攻撃してこなければ意味がないのだ。
魔道士の触手がたどり着く寸前、ギリギリで陣は完成した。完成した陣は魔道士の触手を弾き、その効果を発動する。
「これは!?貴様っ…」
魔道士は狼狽してよろめいた。その頭上に見えていた空間の歪みが収縮する。
「魔法書き換えなんてできちゃったり!」
私は作戦が成功した嬉しさでつい叫んだ。私が敷いたのは詠唱変換の陣で、陣に触れた者の詠唱している魔法を無作為に書き換えて妨害する陣だった。
「おのれっ!小癪な真似を!!」
と、激昂した魔道士は右腕を振り上げ、無数の触手を私に向かって伸ばした。私はそれを間一髪で避けたが、さらに避けたところに迫ってきた左腕の触手に捕まってしまった。
触手は首を締め上げながら私を身体ごと持ち上げる。苦しさと、触手のぬるぬるした質感で全身に鳥肌が立った。
「小娘め…このまま締め上げながらもう一度詠唱すれば良い事よ」
魔道士は嗜虐的な笑い声をあげ、触手に力を込めながら詠唱を再開した。と、そこにラニアが追いつき、魔道士の懐に潜り込む。
「もう充分時間は稼げた。あんたの負けだよ、化けミミズ!」
ラニアはそう言って銅剣を一閃した。切っ先が魔道士の身体に食い込む。が、魔道士はそれに構わず、右腕の触手でラニアを捕らえ、私と共に持ち上げた。
「残念、そのなまくらでは私の身体は斬れなかったようだなァ?」
魔道士はヒッヒッヒ、と笑い声をあげる。確かに魔道士の弾性のある体には傷一つついていなかった。しかし、ラニアは余裕で言い放つ。
「気付いてないのか?おめでたいな」
その言葉と同時に、魔道士は突然苦しみ始め、私とラニアを地面に放り出した。同時に、魔道士の頭上にあった空間の歪みが、斬り裂かれたように真っ二つに分かれて、消えていく。ラニアは巧く受身を取って立ち上がった。
「な…にを、し…た?」
「俺の剣はあんたの精神を斬る。朽ちろ」
ラニアがそう言い終わる前に、魔道士は力尽きて地面に伏し、動かなくなった。
「…死んだの?」
私は首に纏わりついた粘液を拭いながら、恐る恐る倒れている魔道士の方を眺めた。
「いや、俺もこの術を本気で使ったのは初めてだけど、多分術を破られたショックで気絶してるだけだと思う」
「じゃ、じゃあ起きる前にもう行こうよ。もう私、コイツに触るのも嫌」
私は本心からそう言った。まだ触手のぬるぬるした感覚が身体に残っている。
「まぁ待て。これから俺らは麓の宿に泊まるんだし、コイツが起きたら追ってこないとも限らないだろ。どこかに縛っとかなきゃ…」
ラニアは冷静にそう言う。私は身震いがした。
「縛っとくのは賛成だけど、私がやるのは絶対嫌!」
「いやいや、俺だって嫌だし、ここは公平にじゃんけんでも…」
「もう!さっきだって私が囮になってあげたのに!ちょっとは労わってよ!」
「俺の術がなけりゃ召喚師相手に絶対勝てなかっただろ!ちょっとは感謝しろよ!」
結局、私達はお互い一歩も譲らず、最終的にじゃんけんをして見事に負けた私は、またあの気持ち悪い身体に触れなければならなくなった。
気がつけば、いつの間にか巨神兵の咆哮はやんでいて、辺りは静かになっていた。私達が巨神兵の足元に戻ると、地面にいくつかの凍った巨神兵の涙が転がっている。それは真珠のように美しい光沢を放っていた。予想外の事態は起こったが、どうにか課題は達成出来たようだ。
もう昼になろうかという頃に、私は麓の宿の二階で目覚めた。昨日の無理が祟って全身がだるい。私はこれから半日かけて魔法学院まで歩いて戻らないといけないという事を考え、絶望的な気分で宿の一階に降りた。両足とも、階段を一段降りるのも一苦労する程の筋肉痛になっていた。
ようやく一階に着くと、ラニアは私より一足先に起きたらしく、ちょうど朝食を取り終わったところだった。ラニアは私の姿を見ると、「用意して二階で待ってるから、早く来いよ」と、涼しげな顔で言い、去っていった。私は、持って帰らなければならない荷物の事を考えると、とても食事を取ってすぐ出発するような気分にはなれなかったが、やはり悔しいのでそれを言い出す事は出来なさそうだ。
私は重たい気分のままのろのろと朝食を取って、二階に上がった。
出来ればこのままもう一眠りしたい、なんて思いながら自分の部屋に入ると、私の荷物が全て忽然と消えていた。私はすぐに昨日の魔道士の事が頭に過ぎり、焦ってラニアの部屋に向かった。
乱暴にラニアの部屋のドアを開けると、そこには私のリュックと自分の巾着袋を背負ったラニアの姿があった。
「よし、出発するか」
ドアを開けたところで硬直している私に向かって、ラニアが言った。
「いや、特待研究生として入学する人がいるってのは聞いてたけど、まさかこんな子供とは思わなかったよ。あ、この棟は物理魔法科が主に使ってる。科が科だけによくぶっ壊れるんだ。…で、名前は?」
着いて早々、私は休む暇も無く学院を案内される事になった。二日も飛行鯨の上に乗っていた為だろうか、ふわふわした感覚が身体に残っていてなんだか非常に歩きづらい。
「シンルです。ハクマシンル」
「シンルね。覚えたよ。俺はミズマユリ。一応ここで教授やってるけど、教授、って呼び方は肩苦しいからユリ先生でいいよ。ユリせんせー」
学院長に案内を任された女性、ユリ先生は、私の一歩前を歩きながらハキハキとよく喋る。慕われているのだろうか、途中ですれ違う殆どの生徒に挨拶されていた。
「シンルはもちろん寮に入るんだろ?」
ユリ先生が振り向きながら言う。その拍子に大げさなくらい胸が揺れた。ユリ先生は私の村の誰よりも胸が大きい。二十代中ごろぐらいだろうか、短めに整えられた浅緑の髪も、ユリ先生の魅力を引き立てている。男子生徒が慕う理由はわかる気がする。
「えーと、多分そうです」
「なんだ、多分って」
と、怪訝な顔で聞き返されてしまったので、私はサルトルの紹介でここに来た事と、アリサドの小さな村に住んでいたので魔法学院のシステムがまったくわからない事を説明した。
「まぁそれなら寮に入るんだろうけど…。はぁー…、あのサルトルの紹介で、しかも学院長直々の迎えが来るなんて、これはまたとんでもない大物が入ったなぁ」
ユリ先生は頭を抱えるような仕草をしながら言ったが、その声はむしろ楽しそうな響きを含んでいた。
「いえ…全然そんなのじゃあ…。トールさんが学院長だなんて知らなくて…。というかサルトルさんもすごい人なんですね」
私は大物と言われた事に内心喜びながら言うと、ユリ先生は、信じられない、という顔をした。
「馬鹿、ハルトゼイネル、サルトル、マリスといえば、今の世の中じゃあ、『三大魔道士』って呼ばれてて、全世界の魔道士の目標になってるような存在なんだぞ。まぁマリスって奴は今どこにいるのかもわからないらしいけど、そのうち二人のお墨付きなんて、学院始まって以来だよ」
私はぎくりとした。まさかサルトルがそんなに有名な魔道士だとは思わなかった。そして、その三大魔道士のうち、サルトルとマリスがつい最近争った事はまだ明るみには出ていないのだろうか。
「まぁ、ウチの学院長の事は気にするな。そういういたずらっぽいところがある人なんだ」
私の動揺を知ってか知らずか、ユリ先生は苦笑しながらそう付け足した。
「そうだったんですか。…あの、ところで私は何科になるんですか?」
私は、自分が知ってはいけない事を知っている気がして、それとなく話題を変えた。
「いや、そりゃシンルがどのタイプの魔法を使うかだろ?」
「えっ?魔法はこれから習うんじゃないんですか?」
「は?」
二人の間の空気が凍るのがわかった。しかしわかったところで私にはどうする事も出来ない。ユリ先生の唖然とした顔を眺めながらの重たい沈黙。
「…魔法、使えないの?特待研究生なのに?」
広大な学院内を案内され終わった頃には、もうすっかり日が暮れていた。ユリ先生は最後に私を食堂に案内すると食券を手渡して、学院長に事情を聞いてくるから食べ終わってもそのまま待っていてくれ、と言い残して駆け足で去っていった。食堂は長方形の巨大な部屋で、その形に添って四列に長細い食卓が並んでいる。百人は座れそうなほどの椅子が用意してあり、天井には煌々と光るシャンデリアが二組、吊り下げられている。既に椅子は半分ほど埋まっていて、背の高い者、低い者、専用の椅子と机を使っている巨大な者、机の上に座っている小さな者、等々、様々な種族の生徒達が賑やかに食事をしていた。
私は一人になって急に心細くなりながらも、掲げられたメニューの中から辛うじて自分も食べた事のありそうな魚料理を注文して食べた。母の料理とは味付けが全然違ったが、意外にも美味しく感じた。
学院長と飛行鯨に乗って派手に登場したのが噂になったのか、私が食事をしている間、周囲から私に視線が注がれるのを感じた。私の事を言っているのだろうか、小声で話す声も聞こえる。しかし、人見知りとも複雑な人間関係とも無縁な環境で育ったその時の私は、それを気にする事もなかった。ただ、誰とも会話をせず、一人で食事する事が始めてだったので、その寂しさには戸惑った。
食事を終えた時、ちょうど食堂のドアが勢い良く開き、ユリ先生が入ってきた。そして入ってきた途端、「シンルどこだー?」と、広い食堂中に響き渡る大声を出した。
私が立ち上がると、食堂中の注目が私に集まった。さすがにそれは少々恥ずかしかった。
もちろん、ユリ先生はそんな事お構いなしで、私の方に向かっておいでおいでをするように手を振って、食堂から出て行った。私は急いで追いかけようとしたが、調理場の方から、「食器持ってきな!」と、これまた大声で言われてしまった。
食器を片付け、ユリ先生について行った先は、実験棟にある一室だった。そちらでいう普通の教室ほどの広さの部屋に入ると、ユリ先生は全ての窓にかかった分厚い布のカーテンを閉め切った。とたんに室内は暗転する。
「ユリ先生?」
本当に目の前も見えないほど真っ暗だったので、私は不安になってユリ先生を呼んだ。
「待ってな、今陣を発動するから」
と、ユリ先生が答えてからつかの間、室内はぼうっと明るくなった。一瞬、光源がどこにあるのかわからなかったが、すぐに理解出来た。ユリ先生の身体と、それから私の身体からぼんやりとした青白い光が放たれている。ユリ先生の光は私の光よりも若干はっきりとしていて明るかった。
「この部屋に敷かれた魔法陣。キルリアンの陣っていうんだ。大昔に、キルリアンって偉い魔道士が編み出した陣で、陣の中にいる生物の身体に流れる魔力を捕らえて、光らせるのさ」
ユリ先生はそう言いながら、私の肩に軽く触れた。二人の身体を覆う青白い光が繋がる。
「うん、まぁ学院長の言った通り、この年齢にしては驚くほど落ち着いた、強い魔力を帯びてる。さぁここからが本番だ。見てな」
ユリ先生は私から手を離して一歩下がると、左手を胸の前に掲げて人差し指と親指を突き出し、もう一度「よく見て」と言った。私はユリ先生の左手に注目した。すると、さっきまで身体全体を覆っていたユリ先生の青白い光が、少しずつ左手に集まり、強い光を放ち始める。
その光が一際強い輝きを放った次の瞬間、バチッ!という音と共に、青白い光とは別の種類の閃光が掲げられた左手の人差し指と親指の間に走り、一瞬部屋が昼間のように明るくなった。閃光の残像が消えると、ユリ先生の身体を取り巻く青白い光は、もう最初の状態に戻っていた。
「今のが魔法だよ」
「すごい…」
私が感嘆とした声をあげると、ユリ先生は苦笑した。
「いやいや、今のは炎術の基礎の基礎だよ。大した術じゃないんだ。実戦で問題になるのは火力じゃなくて、何が燃えやすいかを知る事だけどね。っと、今はそんな話じゃないか。さて…」
ユリ先生は腕組みをして、続ける。
「どうやらシンルはまだ何も知らないようだから、その基礎の基礎から教えていかなくちゃな。長くなるから、頑張って覚えろよ。
魔法は、大まかに分けて三種類ある。陣系、詠唱系、付加系。これはそれぞれ発動方法によって区別されていて、このキルリアンの陣みたいな陣系は予めその場所に陣を組んで発動する。種類によって陣の作成にかかる手間は様々だ。大抵は陣の内部にいる者に効果があるな。それから、詠唱系。これは詠唱文を読み上げるか、印を結ぶ事で発動する。俺は印を結ぶ方が得意だが、シンルは詠唱派かもしれないな。最後に付加系。これは予め魔力を込めた札とかの魔法の品を使うんだ。俺はからっきしだが、いざという時に詠唱も陣も必要ないから、頼りになるぞ。……以上が魔法の分類だな。私達が使う魔法の殆どは、この三種類の発動方法と、それを複合した発動方法を持ってる。中には特殊な発動方法を持つものもいくつかあるが。
そういう事で、魔法は人によって向き不向きがあるんだ。それから、これは最近理解されつつある事だが、その土地が持つ力によって、発動できる魔法と出来ない魔法がある」
「地相の事?」
「ん?最近の話なのに良く知ってるな。まぁそうだ。幸いこの魔法学院がある場所は炎、水、風の主要三属性の地相が強いし、光と闇も無いわけではないから、殆どの魔法が使えると思っていい。
話の続きだ。向き不向きがあるから、普通だとまずはシンルに向いている魔法と向いていない魔法を知らなくちゃならないが、どうせ特待研究生はほとんどの講義に出席しないといけないし、向き不向きはひとまずおいといて基本的な魔法の発動方法から入ろう。さっき俺がやった点火術をやってみるぞ」
「え、もうですか」
意外に話が早く終わってしまったので、私は拍子抜けした。
「これ以上くどくど口で言っても始まんないし、実践あるのみだろ。やるぞ」
「あ、はい」
どうやらユリ先生にとっては長い話だったようだ。
「まずは、自分の頭のすぐ上に、頭と同じくらいの大きさの小さい雲が浮かんでいるのをイメージするんだ。いいか?……その雲から雨が降ってくる。その雨はどうなる?」
私は眼を閉じて、ユリ先生に言われた通りにイメージした。
「私を濡らして、それから床に落ちます」
「よし、それで良い。しばらくはその雨の流れをイメージし続けて」
ユリ先生はそう言って黙った。眼を閉じてイメージしていた私に知る事は出来ないが、この時、私の身体の青白い光が波打つようにして足元に少しずつ移動していた。ユリ先生は私の足元に充分な光が集まったのを確認して、言う。
「いいぞ。じゃあ次は、足元に出来た水溜りが、また自分の身体を登って、今度は両手に集まるのをイメージして」
私が言われた通りイメージすると、私の足元の光はまた私の身体を波打つようにめぐり、両手に集まった。
「眼を開けていいぞ。……見てみろ、両手に光が集まってるだろ」
私はここで初めて光が移動した事を知り、驚いた。驚いたと同時に、両手に集まった光は刺々しい形に変わって、エネルギーを放出したように輝きが少し弱くなった。
「こらこら、精神を落ち着けて、集中する。それから見えないボールを両手で持つようにして」
ユリ先生はたしなめるように言った。私は輝く両手を慎重に動かして、胸の前で向き合わせる。ユリ先生は私の両手を囲むように自分の両手を差し出した。私の両手の輝きがより強くなる。
「最初だから、幇助してやる。…じゃあ、『払惑の隣人 朱の告別 刹那の露電 この手に示せ』こう唱えるんだ」
私は緊張を押し殺し、出来るだけ落ち着いて唱えた。
――払惑の隣人 朱の告別
刹那の露電 この手に示せ――
バチッ!「きゃっ!」
両手の間に鋭い熱と閃光が走り、私は思わず悲鳴をあげた。それを見て先生は嬉しそうに笑った。
「さすが、一発で成功なんてな。今のが詠唱系炎術の初歩的な呪文、点火術だよ。まぁ俺くらいになればこれくらいの術は詠唱や印を使わずとも発動出来るようになるぞ。さて、今度は俺の幇助無しで一人でやってみな」
「はいっ!」
私は嬉しさで軽い興奮状態になっていた。ユリ先生に「魔法使えないの?」と言われた時の不安も消え失せ、これからの生活への期待で胸がいっぱいになる。
私は有りっ丈の魔力を込めるイメージをしながら両手を胸の前で向き合わせた。両手の光はユリ先生の幇助を受けたさっきの光よりも強くなる。私はさらに嬉しくなり、より一層の魔力を込めて唱え始めた。払惑の隣人…
「わっ!バカッ!」
ユリ先生がそう叫んで身を乗り出し、私の腕を掴んだ時にはもう手遅れだった。過剰に魔力を込められた術式は暴走し、部屋内に爆音が響き渡った。
幸い、ユリ先生が私の腕を掴んで閃光の軌道を逸らしてくれたおかげで、被害は廊下側の壁の一部を吹き飛ばしただけで済み、ユリ先生も、よくある事だ、と慰めてくれたが、私は到着早々、調子に乗って学院を破壊してしまった事を深く後悔した。ユリ先生は私を一通り慰めた後、魔法に重要なのは魔力の大きさではなく常に冷静な心だ、とたしなめた。(実際はもっと長々と怒られたが)
そうしているうちにずいぶん遅い時間になってしまったので、ユリ先生は「講義内容に追いつくまではまた個人授業してやるから、今日は終わり」と言って私を寮に案内してくれた。私が入る部屋には既に先住人がいるらしく、ドアの横には「ウスラミ・カスカ」というネームプレートが入っていた。ユリ先生はその下に私の名前が書かれたネームプレートを入れると、
「どうせカスカはいないだろうから、あがってくぞ」
と言ってドアを開けた。確かに部屋の中には誰もいない。しかし、その部屋には不気味な藁で出来た人形や、オレンジ色の液体が詰まった瓶の中に浮かぶ得体の知れない生物、髑髏の形の透き通った置物などが所狭しと置かれ、さらに壁には謎の札のようなものが無数に貼られている。それらのもの全てが、この部屋に住むウスラミ・カスカの存在を強烈に主張していた。
「カスカは付加系の術師なんだ。付加系が苦手な俺から見ても結構優秀な生徒なんだが…、まぁ趣味は見ての通りだ。厄介なところに入る事になったなって思ってるだろうけど、頑張れな。カスカは確かシンルと同い年だから、もしかしたら仲良くなれるかもしれんし。あ、シンルが持ってきた荷物は多分二段ベッドの上の段に置いてあるぞ」
ユリ先生は床に置かれた人形達を足でどけて座る場所を確保しながら言った。私は、こんな会う前から既に不気味な人とは出来ればお知り合いになりたくない、と思いながら、窓側に置かれた二段ベッドを見ると、確かに私の荷物が上の段に置いてあった。下の段にはフリルのついた浅黄色の布団が敷いてあり、カラフルな猫のぬいぐるみが何体か置いてあった。その一角だけが妙に可愛らしい少女趣味で、おどろおどろしい部屋の雰囲気とは全く切り離されていた。
私は荷物をベッドの端に寄せれば、上の段にもギリギリ眠るスペースがあるのを確認した。まさかこんな散らかし癖のある人と二人暮しになるとは思わなかったが、持って来る荷物を少なくしておいて助かった。
「お、それからこれ。こっちの通貨だ。学院長から渡すように頼まれた」
と、ユリ先生は私の足元に皮の袋を置いた。袋の中から、ザリ、という重たい音が鳴る。
「良いんですか?」
「良いんですかも何も、シンルはお金なんて持ってないだろ。本当はもっとたくさん預かったんだが、月に一度ずつ、同じだけ渡すから無駄遣いするなよ。とりあえずは、その田舎臭い服は何とかした方が良いかな。買い物なんて初めてだろうから、今度、近くの街に連れてってやるよ」
「ありがとうございます」
私はお礼を言いながら皮の袋を受け取って、二段ベッドの上の段に置いた。そういえば、お金にはまったくなじみがなかったので、特待研究生として入学できるだけで安心していたが、確かに少しは持っていないと色々不便だ。
「さて、実はまだまだ聞きたい事があるだろう?こんな小さいコが一人で村から出てきたんだ。不安な気持ちでいっぱいだろ?俺も寮住まいだし、もうこの際だから今日はとことん付き合ってやるよ。とりあえず学院の事は何でも答えてやるから、言ってみな」
ユリ先生は床にあぐらをかいて、自分の膝をバンバンと叩きながら言った。私はその姿を見ながら、活発で面倒見の良いユリ先生を心の底から頼もしく感じた。ユリ先生はその日の夜遅くまで、ハルトゼイネル魔法学院の事を説明してくれた。
ユリ先生によると、ハルトゼイネル魔法学院は、そちらの言葉で説明すると大学院に近く、魔法の学び舎というよりは総合施設に近かった。設備も研究内容も世界の最先端を独走している為、魔法を学ぶというより、研究する目的で入学する者も多い。また、教育課程を修了した生徒も研究生となって学院に在籍を残す事が出来る。それから、魔法の高い技術力を持つが故に、周辺国に軍事的に重要な拠点として見られているため、有事に備えて赤国と協力関係を結んでいる。
私の特待研究生という立場は、普通は教育課程を優秀な成績で修了した生徒に対して、研究生として学院に残るなら費用は免除しますよ、というもので、特別な才能が認められない限り、教育課程を終える前から特待研究生となる事はない。私の場合は、サルトルの推薦、という特例だろうか。とにかく、最初から特待研究生として入学する者は、全ての費用が免除される代わりに、ほとんど全ての講義に参加しなければならないようだった。
他には、特待研究生である限り、実力が備われば積極的に任務に参加してもらう事になる、とも言われたが、その任務については詳しく教えてもらえなかった。
私が魔法学院に入学してから二ヶ月が経った。ユリ先生に言われた通り、私は半強制的にほとんどの講義に参加せねばならず、めまぐるしい毎日を送り、ホームシックにかかる暇も無かった。
むしろ、そういった寂しさよりも今までまったく知らなかった事を次々と学べる楽しさの方が勝っていたかもしれない。私は毎日、朝から晩まで講義を受け、講義が終わると食堂で食事をした後、図書棟に足を運んで本を読み漁った。たまの休日には、ユリ先生と近くの街で買い物をしたりもした。街にも目新しいものがたくさんあり、私は知らない物に出会う度に、ユリ先生に説明してもらいながら街を歩いた。
同居人である、ウスラミカスカとはほとんど会う機会が無かった。カスカはいつもどこかに外泊していたし、たいてい私も部屋に帰るのが遅かったので、たまにカスカが部屋にいたとしても、もう眠っている事が多かった。
初めてカスカが起きている時に部屋に帰った時、カスカは謎の藁人形と向き合いながら低い声でブツブツと呪文を唱えていた。私が恐る恐る「始めまして」と言うと、「シンルちゃん?よろしく」と答えてくれたものの、私が「よろしくね」と返したきり、それ以降の会話は無く、カスカはまた小声で呪文を唱える作業に戻ってしまったので、私は仕方なく狭い二段ベッドの上の段に登って、図書棟で借りてきた本を開いた。部屋にもう少しだけでも自分のスペースが欲しいと言い出そうか迷ったが、カスカの真剣な(というより、不気味な)様子を見るとなんとなく言い出せなかった。
魔法に関しては、なかなか順調な滑り出しだと自分でも思えた。冬期からの途中入学なので、最初のうちは実技などについていけずに苦労したが、わからない事や出来ない事がある度に、図書棟から本を借りて調べたり、ユリ先生に個人授業をしてもらったりしたので、すぐに追いついた。二ヶ月経った今では、基本的な魔法ならある程度使いこなせるし、学年での成績も中の上くらいになっていた。
友達を作りもせずに(狭い村で育った私に、友達を作る、という感覚は無かったが)そんな生活を続けていた為だろうか、ユリ先生は何かと私の世話を焼いてくれた。そしていつも、友達くらい作れよ、と言ったが、あのカスカに対しては望めるべくもなく、私から誰かに話しかけるにもどうしたら良いかわからなかったので、依然として友達が出来る気配は無かった。
時々、学院内で私に話しかけてくる人も居たが、それは大体、中年の研究生といった風貌の人で、話の内容はいつも、特異な経歴で入学した私を実験材料として見ているような感じだった。もちろん、友達になろうという話など微塵も無い。そもそも、学院に通う人々の殆どがニンゲンでいう20歳から先の年齢で、同世代の人は少なかった。
私も毎日一人でいるのは少し寂しかったので、出来れば食堂で会ったら一緒に話したり出来るくらいの友達は欲しいと思っていたが、どうにも、都合の良さそうな同世代の人を見つける事は出来なかった。
そんな頃、私に対して、実験材料的な話ではなく話しかけてきた人が一人だけいる。しかも、私の少し上くらいの若い男の子だった。
「お前、特待研究生で入学したんだってな」
食堂でもやし料理に舌鼓を打っていた時、その男の子は隣に座って話しかけてきた。振り向くと、短髪で痩身の、いかにも爽やかな雰囲気の男の子が私と同じもやし料理を机において、私の顔を覗き込んでいた。私は妙に緊張してしまいながら、そういえば講義で頻繁に見る顔のような…、と考えた。
「あ、はい。講義でけっこう良く会いますよね?」
私が聞くと、男の子はフン、と鼻を鳴らした。
「当たり前だろ、俺も今年から特待研究生として入学したんだ。しかもお前が入るまで、歴代の特待研究生の中で最年少だったんだよ」
その言葉は挑戦的な響きを含んでいた。私はその雰囲気に圧されてしまう。
「はぁ…、ごめんなさい」
「いやいや、謝るのはおかしくね?要はアレだよ。俺もすげぇ奴が入ったなと思ってたんだけど、しばらく様子を見てみたら、全然ダメ、シロウトじゃんか。お前、何で特待研究生なの?」
どうやらこの男の子は私にライバル心を抱いているらしい、という事がようやくわかって、私は気が重くなった。残念ながら私には特別な才能や隠し持った能力があるわけでもない。
「私、偶然ある魔道士さんに魔法の素質がある事を認めてもらったんだけど、私はアリサドの小さい村に住んでたからお金なんて持ってなくて、それで仕方なく」
私はそう説明した。この頃は誰に対して説明する時も、ユリ先生のように驚かれたり、過度な期待を持たれるのが嫌なので、サルトルの名前は出さないようにしていた。
「ふーん、そうか」
男の子は、自分の方が『真の最年少特待研究生』だと安心したのだろうか、もう一度、フン、と鼻を鳴らして、右手を私の前に差し出した。
「そういう事ならいいや。俺はラニア。特待研究生同士、多分これから会う事も多いと思うからよろしく。まあ特待研究生らしく頑張れよ」
さすがにこの態度には私も少しカチンときて、ちょっとでもかっこいいと思ってしまった過去の自分を消し去りたいと思った。
「シンルです。よろしく」
私は差し出された右手を渾身の力で握り返してやったが、その力はラニアの右手に簡単に吸収されてしまったらしく、ラニアは平気な顔でぶんぶんと腕を振った。私は腕を振り回されながら、わけもわからず自分の顔が赤くなるのを感じた。
私はあの後、急いで隣の家に行き、傷ついた兵士に向かって何度もヒーリングの呪文を詠唱したが、術式は二度と完成せず、結局、私はデルフォイ一人を助けただけで、その日のうちに何人もの虚しい死を見届けなければならなかった。母は、それでも充分だと言って慰めてくれたが、私は、一度出来た事が出来ない悔しさと無力感で胸が押しつぶされそうだった。
その日の深夜、私は前の晩に盗み聞きしたサルトルと隊長の会話から、深夜に隊長が村を出る事を知っていたので、寝たふりをしながら時間を待ち、玄関のドアに手をかけた隊長にそっと話しかけた。
「隊長さん、お気をつけて」
隊長は軍人らしい素早い動きで身構えながら振り向き、一瞬、しまった、という顔をしたが、声の主が私だという事を確認すると、すぐにふっと息を吐いた。
「まったく侮れない小娘だ」
「あの、大丈夫です。…誰にも言わないですから。挨拶だけしたくて、その」
「そんな事は心配してないさ。どうせ、私が脱走した事なんて明日の晩にはみんな気付く」
隊長は自嘲気味に言いながら、物音一つ立てずに私に近づき、両手のひらを私の頬に軽くそえて、私の顔を上に向け、自身も顔を近づけた。
「娘、お前は綺麗な眼をしてるね」
「え?」
私が戸惑うのも気にせず、隊長はかがみこんで、さらに顔を近づける。窓から入る月明かりが、隊長の整った顔を淡く照らしだす。その顔にはどの種類の感情も見出せなかった。
「でも、『何で脱走するんだ、脱走は悪い事だ』って、その眼が言ってるよ」
隊長の普段通りの澄んだ声に、私は心のうちを見透かされたような気がして、背すじの凍るような思いをした。隊長は続ける。
「確かに、脱走は悪い事だ。特に、多くの兵を束ねる立場の者が突然何も言わずに逃げ出すなんて、最低の行いだ。だけど、私はそれでも、やらなければならない事があるんだよ」
「…やらなければならない事って?」
私は隊長の威圧感に圧されながらも、辛うじて聞き返した。
「私の場合は人探しだが、理由なんて人それぞれさ。詭弁のようだが、それが本人にとって大事なら、何だっていいんだ。娘、お前も…」
隊長はそこで一端言葉を止め、私の眼を力強く覗き込んだ。その眼には不思議と隊長独特の威圧感はなく、どちらかと言うと、その瞳の奥には寂しさのようなものがあるように思えた。
「娘、お前には自分が思っている以上の力がある。お前はこれから、お前が考えもつかなかった様な、大きな流れに巻き込まれていくだろう。その流れは、時代と言えるのかもしれない。運命とも言えるだろう。何にしろ、その流れの最中で、必ず今の私のように、選択を迫られる時が来る。いいか、その時、もしもお前の中に、譲れない何かがあるなら、迷わずそれを選択するんだ。物事は、良いか悪いかだけで考えるものじゃない。一番重要なのは、自分にとって大切なものは何か、だ。善悪の選択を間違えても、心の選択は間違えるな…。そう、私ももっと早くこうするべきだったのだ…」
後半になるにつれて、隊長はまるで自分に言っているかのようにゆっくりと、一語一句を確認するように話した。私は隊長の言葉を理解しようと勤めたが、きっとこの時の私には、その意味の半分も理解出来ていなかったと思う。
私が言葉を失っていると、隊長はすっと立ち上がって、玄関の方に歩き出した。
「今はまだ考えたってわからんさ。要は好きなように生きろって事だって思えばいい。それから、世話になったのに何も言わずに行こうとしてすまない。ありがとう。この村の酒は旨かったって軍の間でも評判だった。交易路さえしっかりしてくれば、この村の未来も明るいぞ。あとは、」
隊長はつ、と立ち止まる。
「デルフォイを救ってくれてありがとう。あれはバカだが、頼りになる良い奴なんだ。
…今度だって、デルフォイは正気を失ってヌーティヌに突っかかっていった奴を助けようとして怪我しちゃったのよ。本当のバカね。ふふっ…。
…まぁとにかく、デルフォイにも挨拶をしてないのはちょっと悪いと思ってる。出来たら、後で私からの挨拶を伝えて…」
「その必要はないですぜ、隊長」
隊長は振り返って、今度こそ本当に、しまった、という顔をした。私も後ろを振り返ると、そこには包帯の上から胸当てをしたデルフォイの姿があった。
「隊長、こんな遅くに一人でどこ行くんでさぁ?外にはまだヌーティヌの群れが残ってるんですよ?よっぽどの急用ですかい?」
「そんな事は見ればわかるだろう。それよりお前、身体はもう良いのか?それと私はもう隊長ではない」
さすがの隊長も幾分焦ったのか、早口でまくし立てる。
「はい、このお嬢ちゃんは天使ですぜ。もうどっこも痛くねぇ。…えーと、隊長じゃねぇとなると、メリエさんって呼べば良いんですかぃ?」
「茶化すんじゃない」
私は、『多分、茶化したんじゃなくて本気で言ってるんじゃないかな』なんて思いながら、二人の様子を見ていた。焦る隊長…メリエは、先ほどとはうって変わって可愛らしく見えた。
「とにかく隊長、じゃなかった、メリエさんが行くところがどこだって、村から出るってんなら俺は護衛としてついていきますぜ」
メリエは肩をすくめてしばらく黙った。デルフォイはこれと言い出したらきかない性格なのだろう。会ったばかりの私から見てもデルフォイの説得は困難だろうと思われた。たっぷり二呼吸以上おいて、メリエはやっと口を開いた。
「…好きにしろ。ちょうど軍を抜ける前に、隊長の最後の仕事として、お前を強制除隊しておこうかどうか迷っていたんだ。手間が省けたよ」
さすがにこれはメリエ流のジョークである事がわかったのだろう、デルフォイはニィっと笑って身を乗り出した。
「お嬢ちゃん、そういう事だから俺ぁ行くけど、ホントにありがとうな!命の恩人だぜ!まぁ、その恩を返す為にこの村に骨をうずめて働きてぇのもやまやまなんだが、メリエさんがこう言っちゃあしょうがねぇからよ」
「そんな事言って、お母さんの傍に居たいだけでしょ?」
私が意地悪っぽく言うと、デルフォイは壁に立掛けていた剣を手に取りながら、「まったく、お嬢ちゃんにはかなわねぇ!」と言って大声で笑った。
「大声を出すな、それから、そのメリエ、さん、ってまどろっこしい呼び方もやめろ。メリエと呼べ」
軍を抜けても基本的な上下関係は変わらないらしく、デルフォイはさっそくメリエに怒られながらも、さすがは軍人、ものの数分で旅支度を終え、メリエの待つ玄関に立った。二人は最後に、私にもう一度別れの言葉を言い、私も笑顔で二人の無事を祈った。
それから一ヶ月が経ち、傷ついた兵士達がある程度癒えると、サルトルは軍を率いて赤国へと帰っていった。死にかけていたデルフォイはともかく、サルトルが隊長の事を兵士達にどう伝えたのかはわからない。どう伝えたとしても、隊長が脱走した事は兵士達から見ても明らかなように思うが、不思議と兵士達に混乱した様子はなかった。或いは、脱走に気付いていても、良き隊長だったメリエが軍法会議にかけられる事は誰も望まなかったのかもしれない。
こうしてやっと、村にいつも通りの穏やかな日々が帰ってきた。若干の肌寒さが、収穫期の近い事を知らせ、村の人々は、長く滞在した兵士達のおかげでほとんど空っぽになってしまった食料庫をいっぱいにする意気に湧いていた。
私にとっては退屈な日々が帰ってきたわけになるが、私はその退屈な日々ももう長くない事を知っている。軍が出発する時、サルトルは私を呼んで言ったのだ。
「私の眼に狂いが無ければ、貴方には類稀な魔法の才能がある。ハルトゼイネル魔法学院で魔法を学ぶ気は無いか?」
もちろん、私にとってそれはとても魅力的な誘いだった。しかし、魔法学院に通うのに、南大陸の通貨が必要なのは知っていたし、二つ返事で了承出来るわけではない。私は迷うような仕草をしたが、サルトルは私の考えなどお見通しだった。
「もちろん、金など必要ない。卒業後に赤軍に来いなどと、特別な条件もつけない。私はただ才能を埋もれさせたくないのだ。私はハルトゼイネル学院長とも知り合いだ。必ず、特待研究生の椅子を用意し、冬になる前には貴方を迎えに来る事を約束する」
私は下衆な考えを見透かされたのを恥じながらも、首を縦に振るよりなかった。
私としては、夫にも先立たれ、一人娘の私を大事に育てている母に、「遠くの国に行きたい」と言い出すのはとても気の重い事だったが、母は、意外にも簡単にそれを了承してくれた。その上、あと二十年時代が違えば自分が行けたのに、なんて、理屈のよくわからない嫉妬までしてきた。私は母に、魔法を学んだら必ず帰ってきて村に役立てる事を約束した。母は、そんなに気負わなくてもこの村は楽しくやっていける、と言ったが、話しているうちに私の空想は膨らみ、メリエの言っていた、地酒を村の特産品にするアイディアを、さも自分のアイディアのように母に話し、しかも、それを自分の魔法で運ぶのだ、と、少々無邪気過ぎる計画を立てて語った。その日、久しぶりに母と何時間も話した。
サルトルの迎えが来る前から、私はもう魔法学院の生徒になったような気持ちでいて、毎日、母のコレクションの魔法書を読んでは、大魔道士のような険しい顔をして、眉間の辺りに力を込めながら、花瓶や木彫りの人形に向かって呪文を詠唱した。しかしもちろん、術式は一度も完成しなかった。(花瓶や人形に向かって本当に炎つぶてが飛んだりしたら、それはそれで非常に困るが)
母が言ったのか、それとも浮かれた私が自分でも気がつかないうちに言ったのか、村の人々は私が旅立つ事をいつの間にかみんな知っていた。村の誰もが、私に会う度に私の旅立ちの事について触れ、無事を祈ってくれたが、そこはやはり外の世界に疎い村、その内容は多種多様というか、誰一人も旅立ちの理由を正しく理解してはいなかった。
「今度、偉い学者さんになるんだって?物知りだとは思っていたけれど、すごいねぇ…。頑張るんだよ」
「海を越えて誰も見た事ない大陸を目指すんだろう?あんた、そんなもんあるかもわかんないんだから、やめときなよ」
「魔女になるんだって?はぁ~、まだこんな若いのに…。最近は進んでるっていうか、変わってるよなぁ~」
「お前、赤国に嫁に行くのか…。ちっちゃい頃、俺と約束したの覚えてるか?…いや、何でもない。幸せにな…」(彼が言いたい事はわかるが、私は誓って約束なんてしていない)
みんながこんな調子だったので、私は収穫の忙しさの中、出会う人出会う人に正しい理由を説明しなければならなかった。
とにかくめでたいという事だけはみんなわかってくれた様で、収穫作業がようやく一息ついた頃、収穫祭のついでに私の旅立ちも祝ってくれる事になった。しかし喜んだのもつかの間、そのお祝いというのは、私を収穫祭に行われる舞踊劇の主役に抜擢する、というありがた迷惑なものだった。おかげで私は収穫作業の疲れを癒す暇もなく、踊りを覚え、練習しなければならなかった。
収穫祭当日、村の人々は各々の手に今年一番の作物で使った料理を持ち、村の外れにある広場に集まった。幸い今年は豊作だったので、赤軍の事を愚痴る人は一人もいない。母を含む奥様の方々は、にこやかにお互いの料理の腕を褒めちぎっていたし、男達は、うちの野菜が一番出来が良かったとか、うちの家畜の毛並みが一番だ、とか、自慢話に夢中になっていた。
私も各家庭の料理を堪能し、同世代の友達とのおしゃべりを楽しんだ。そのうちに、笛の音が響き始めたので、私は急いで林の中に隠れて衣装に着替えた。
広場の中心部、いつ誰が何の為に建てたのかわからない猫型の巨像の前の舞台で、笛と太鼓が鳴り響き、そこに人々の囃子が加わって、騒がしい舞踊劇が始まった。劇と言っても、ストーリーは極単純で、雨の神様が地上の姫に恋をして、それを姫がフってしまった為に、雨の神様は雨を降らせなくなってしまい、困り果てた王が歌と踊りで何とか雨の神様の機嫌を取り、雨が再び降るようになって、めでたしめでたし、というものだった。私は傷心の雨の神様を癒す踊り子の役だった。
練習の時は、まったくなんでこんな事に、と不貞腐れていたが、いざ出番が来て踊ってみると、音楽と村のみんなの囃子の中で踊るのは案外気持ちが良く、私は我を忘れて踊りを楽しんだ。私はその時になって、この村を離れなければならない事がちょっぴり悲しくなった。
私の出番が終わった時には、私は自分でもわかるほど頬と眼を赤くしていた。みんなが口々に、上手だったよ、とか、綺麗だったよ、と言ってくれた事も、その時の私の心にはしくりと刺さった。
舞踊劇が終わって、料理もあらかた食べ尽くした頃、村の人々は各々の片付けを済ませ、一人、また一人と家に帰り始めた。収穫祭も終わろうとしている。私は、これが最後だと思うとなんとなく帰る気が起こらず、人のまばらになり始めた広場の隅に三角座りをして、ぼんやりと猫の巨像を眺めていた。
「ほうほう、良い祭りでしたね。あなたの踊りもすばらしかった」
不意に横から話しかけられ、そちらを向くと、いつの間にか私のすぐ隣に男が立っていた。なんとその男は身長二メートルは軽く超えているような大男で、しかも、頭からお腹の辺りに至るまで、髪とも髭ともつかない白い毛をふさふさと垂らしていた。老人のような風貌には思えるが、その髪と髭のおかげで人相は殆どつかめない。とにかく、村の人ではないと一目でわかった。というか、ニンゲン族かどうかすら疑わしい。
「はい、ありがとうございます。えーっと、あなたは?」
私は、もしや私の踊りがあまりに情熱的だったから、本物の雨の神様がやってきたんじゃないか、なんて思いながら聞いた。さすがにそれはないとしても、その男は本当に仙人か何かのように見えた。
「あぁ、はい、私はサルトルさんの使いの者です。この村に魔法の素質のある者がいると聞いてやってきたのです。あなたは何かそのような話は聞いていないですかな?」
私はどきりとした。何もこんな日にやって来なくてもいいのに。
「それ、私です。ハルトゼイネル魔法学院に入学させて頂けるという話ですよね?」
「ほうほう、あなたでしたか。これは偶然だ。ほうほう」
どうやら、『ほうほう』というのはこの人なりの笑い声のようだった。もしかすると髭があまりに長すぎてあごが重たいのかもしれない。そうも思いたくなるほど、この仙人のような人物はとてものんびりとした話し方をしていた。その間の抜けた雰囲気に、私は少し不安になる。
「あの、失礼かもしれませんが、あなた、一人ですか?」
「ほうほう、私の事はトールとでも呼んで下さい。心配には及びませんよ。ちゃんと無事にお連れしますから」
さっきからまったく答えになっていない。第一、この男は何の確認もせずに私を入学者だと認めたが、それでいいのだろうか?
「まぁ、あの、それよりも、今日はさすがにもう出発できません。よろしければあなたの家に私を泊めて頂けますかな?」
「それは、大丈夫ですけど…」
「それではあなたの家に参りましょう。実は、サルトルさんからここのお酒は旨いと聞きましてね。ほうほう、ほうほう」
私は想像していたよりもかなり格好悪い旅立ちになりそうな予感に頭痛を覚えながら、仙人のような男、トールを家に案内した。
その晩、トールはそれまで私の家に来たどんな人よりも多く酒を呑んで仕舞いには酔い潰れ、机に突っ伏したまま眠ってしまった。私も母も、その巨体をどうする事も出来ず、仕方なく毛布だけかけてあげる事にした。それから、ほとんど正体不明のまま酔い潰れたこの男に、本当について行くかどうか、二人で真剣に話し合った。
翌朝私が起きると、家の中にトールの姿はなかった。私は、まさか酒を呑みに来ただけではあるまいな、と、寝起きの重い頭でぼんやり考えながら外に出た。
もう冬も近かったが、空には雲ひとつなく、暖かい朝だった。私は深呼吸をして、初冬の朝特有の澄んだ空気を堪能した。と、視界の隅に、村の外れに向かって歩いていくトールの姿が見えた。私は小走りで追いつき、声をかけた。
「トールさん、おはよう。どこ行くの?」
私は、あなたはもしや酒泥棒か、という意味を込めた牽制として、どこ行くの、と聞いたつもりだったが、トールはゆっくりと振り向いて、穏やかに答える。
「おはようございます。ほうほう、良い朝ですね」
この男は質問に答えるという事を知らないのだろうか。私は、昨夜の深酒の影を微塵も感じさせずケロリとしているトールに、少しいらだちを感じた。
「あの、今日出発するんですか?」
トールが歩くのをやめないので、しかたなく私も隣にならんで歩きながら話しかける。トールはゆっくり歩いているように見えるが、その歩幅の大きさゆえに、意外とならんで歩くのは大変だった。
「ええ、あの広場なんて丁度良いでしょう。あなたも魔道士のタマゴとして、見ているといい」
要領を得ない返答にうんざりしながらも、私は少し興味を惹かれた。この、質問に答えない癖を持つトールという男が、もしもちゃんと私の質問の意味を理解しているのなら、今から出発の為に必要な何かの魔法を使うのかもしれない。そう思った私は黙ってトールについていった。
広場につくと、トールはその身体相応に巨大な手を自分の口にあて、三度指笛を鳴らした。とても指笛とは思えない大きな音が空に響いた。トールは、指笛を鳴らし終わると、どっこいしょ、という声がついてもおかしくないほどの緩慢な動きで地面に座り込んだ。
私はしばらく注意深くトールの様子を伺っていたが、トールはそれきり何かをするわけでもないようだった。私は若干失望しつつ、トールの隣に座り込む。
これからの事を考え、憂鬱になりながら、しばしの沈黙。
「あれを見なさい」
トールが南東の空を指差しながら言った。指の先に眼を向けた瞬間、私の憂鬱な気分は一気に晴れた。
「すごい…」
まるで巨大な雲のような、真っ白な鯨が空に浮かんでいた。ヒレが異常に大きい以外は、見た目は鯨そのもので、その巨大なヒレをゆっくりと上下させながら、雲ひとつ無い空を悠々と飛んでいる。トールが腕を振ると、空飛ぶ鯨は、ふおおおおお、という村全体に響き渡る轟音と共に、背中から蒸気のようなものを噴き出した。
「すごい!あれに乗るの?」
「私の使い魔のひとり、飛行鯨のペティちゃんです。さあ、支度をしておいでなさい」
私の興奮を知ってか知らずか、トールがのんびりと言う。
こうして私の予感は見事に覆され、飛行鯨の轟音によって起きだしてきた村のみんなに見送られながらの、私の旅立ちの光景は、私にとってとても満足出来るものになった。
飛行鯨は、飛んできた南東の方角に向かって、ひたすら飛び続けた。眼下に広がっていたアリサドの大地は、すぐに海にかわる。海を渡っている間、トールはこの世界がどんな形になっているかを説明してくれた。私は、アリサドの南には赤国、北にはネバタ砂漠とメルタ、東は広大な海で、西には帝国と、そのさらに西には広大な森が広がっている事までは本で読んで知っていたが、世界はそれよりも、もっと、もっと広大だという事に驚いた。正直、私はこの飛行鯨に乗って一日飛んだだけで、世界を一周できるような気がしたが、それをトールに言うと笑われてしまった。
アリサドを飛び立ってから二日目の昼間に、陸に辿りついた。陸に辿りつくと、飛行鯨は進路を変えて、海岸沿いを北へ飛び始めた。私は、生まれてからまだ一度も足を踏み入れていない大地を興味津々で眺めた。なだらかな丘と森が続き、そのところどころに街や村がある、美しい大地だった。そして、日が落ちる前に、ついに私は岬の先端に堂々とそびえるハルトゼイネル魔法学院に辿りついた。
魔法学院は、村の猫の巨像の何倍も巨大で、かつ、美しかった。練られた石で造られたそれは、飛び梁が複雑に絡み合い、アーチを作り、壁面を複雑に装飾された大小いくつもの尖塔が天を指して伸びている。そして、その全てが一つのモチーフのように調和していた。(簡単にそちらの言葉で表せば、ハルトゼイネル魔法学院は中世ゴシック建築で建てられた巨大な城のようだった)
一番大きな建造物の正面玄関から、蒼色の石を敷き詰められた小道が放射状に伸び、魔法学院の外に出る一本の小道を除いて、それぞれの小道が別の棟の玄関に続いている。そしてその棟同士も、中空に造られた渡り廊下のようなもので繋がっていた。そうして建物全体に囲まれた小道の走る空間には、花壇やベンチが置かれている。中庭のようなものだろうか。そこを生徒達が歩いていたり、ベンチに座って話しているのが見える。
飛行鯨は、その庭に降り立った。私とトールが飛行鯨から降りると、生徒達が一斉に近づいてきた。
あら、私ってそんなに歓迎されているのかしら、と思ったのもつかの間、生徒達から驚きの一言を浴びせられた。
「ハルトゼイネル学院長!お久しぶりです!」
もちろん、その言葉は私にかけられたのではない。私の横で、ほうほう、とのんきに笑っているトールに向かってだった。
子供の頃、母に本を読んでもらう事が好きだった。
母はとてもたくさんの本を持っていた。『はなあるきのいのり』…『緋の鋼』…『帝国史』…。ほとんど毎日、夕方になると、私は本を胸に抱えて母の帰りを待った。書斎のほとんどの本を一度は読んでもらい、中でも気に入った本は何度も何度も読んでもらった。母はいつもいやな顔一つせず、私をひざの上に乗せてゆっくりと本を読んでくれた。私は今でも、母と暮らした家にあった全ての本のタイトルをそらんじる事が出来る。
私と母が住んでいた所は、アリサドの東部にある小さな農村で、観光地でも名産地でもないその村は、外部との交流などないに等しく、もし、母に本を収集する趣味がなければ、またはもし、私が母の持つコレクションに興味を示さなければ、私は外の世界の事も文字の読み方も何も知らないまま、ただ農家の一人娘としての人生を歩み、『あの日』に、何が起きたのかもわからないままに死んでしまっていただろうと思う。
物心がついてきた頃、私は母から読み書きを習い、一人で本を読むようになった。自分の目で本を読む事で、私は自分が本に綴られた様々な歴史や物語の登場人物になったような感覚を覚え、空想は膨らんだ。
そして、書斎にある五百あまりの本を読み尽くし、そのほとんどの内容を記憶した頃、私の外の世界への興味は抑えがたいものになっていた。しかし、母が本の入手先としていたアリサドの西の丘を越えたところにあった都市は、私が生まれるよりも昔の戦乱でなくなってしまっていたし、その後もたびたび起こる戦乱によって荒れ果てたアリサドの周辺は、ヌーティヌと呼ばれる大型犬ほどの大きさの凶暴な野獣の住処となっていて、子供一人が村から外に出る事はほとんど出来そうになかった。
唯一、この村で外部との交流があるのは、年に一度か二度、赤国の軍隊が行軍中に立ち寄る時だった。小さい村だったが、広大なアリサドの大地で他に補給できる場所がある訳ではない為、戦争時には必ずここを立ち寄っていた。
軍隊が立ち寄る度に、村の人たちはしぶしぶ水を分け与えて、兵士達の寝床にする為に畜舎を開放した。正直なところ、村の人たちは、同じニンゲン族というだけでほとんど義理のない彼らに、そんな事をしたいとは思っていなかったのだと思う。しかし、私だけは違った。軍隊が来る度に、畜舎で寝ず、村人の家を半ば強引に借りてベッドで眠る数人の赤軍兵士(後で知ったが、その人達はある程度、位が高かったらしい)を目ざとく見つけては、積極的に自らの家に招待し、彼らから外の世界の話を聞いた。ほとんどの場合、彼らは私の母から振舞われた地酒を片手に、滝のような私の質問に快く答えてくれた。(故郷に残している子供の事を想ったのかもしれない)そしてほとんどの場合、私がしがない農村の娘としては異常なほどの知識を持っている事に驚いた。
村にやってくる軍隊の上官から最後に話を聞いたのは、私が14歳になったばかりの頃だった。その時は、いつもの二倍近い数の兵士が村に立ち寄った。隊の中には、見た事のない種族の小隊や、本で読んだ角鬼達の姿も見えた。普段よりも人外部隊の数が多く、動物的な臭いとうめき声で隊は混沌としていた。ニンゲン兵の一人一人からも、一種異様な気配が漂っていて、私はすぐに、歴史が動くような大きな出来事があるのだと直感した。私は村人に向かってなにやら指示している兵士の横に、前に一度家に招待した事のある上官の姿を見つけ、駆け寄って腕を掴んだ。
「おじさん、今日はウチに来てよ!」
と、言い終わらないうちに、村人に指示していた兵士がすごい勢いで私に近づき、手を振り払って叫んだ。
「ガキ!上官殿に触るなっ!家に帰ってろ!」
私は、突然の出来事にわけもわからず、びくっと一度震えて、動けなくなった。兵士に振り払われた手が熱い。もう少しで涙がこぼれかけた時、上官が兵士よりももっと大きな声で叫んだ。
「この無能、無能がッ!テメェはお世話になった村人の顔も忘れちまったのかッ!前の戦争の時にこの子の家はすすんで俺を泊めてくれた上に旨ぇ酒まで振舞ってくれてンだよッ!上官の恩人は部下の恩人だろうがッ!恩を忘れるテメェこそ家に帰りやがれッ!二度と志願するンじゃねぇ!」
「は…、ハッ!失礼致しました!」
兵士は真っ青な顔で敬礼し、私にも大声で「失礼致しましたッ」と敬礼して逃げるように後ろに下がった。私はというと、あまりに予想外な出来事に呆然として、こぼれかけた涙まで引っ込んでしまった。上官は立ち尽くす私の頭をぽんぽんと軽く叩き、
「わかった、今日はお嬢ちゃんのところにやっかいになるよ。お嬢ちゃんの事だから、また色々聞きたい事があるんだろう?」
と、嘘のように穏やかな声で言った。私は緊張が一気にほぐれ、ふにゃふにゃと頷いた。
「よしわかった、何でも答えてあげよう。そのかわり、またあの旨い酒を呑ませてくれよッ!」
上官はまた私の頭をぽんぽんと叩き、豪快に笑った。
後ろで直立不動の姿勢を保った兵士達の間から、「あの『怒りの上官』殿が…、笑ってる…」という声が聞こえた。
結局その日、村の畜舎を殆ど開放しても兵隊全ては入りきらないという事で、村人の協議の末、得体の知れない人外の部隊を家畜と一緒に外で寝させるのも、自分達と家で寝させるのも嫌だという事になり、畜舎を人外の部隊に当て、村の家々に出来るだけのニンゲンの兵士を迎え入れる事になった。その結果、私の家には四人の上官達が集まる事になり、私は世情に詳しい上官達から存分に話を聞く事が出来た。
彼らの話によると、赤国は今まで、様々な種族で構成されていた国、帝国と戦ってきたが、帝国は私が生まれる前の戦乱によって滅亡し、(その、元帝国の首都が、母が本を収集していた都市で、私はそこまでは『帝国史』を読んである程度知っていた)その後は、アリサドの北に位置するネバタ砂漠に逃げ延びた帝国残党を討伐していたが、最近、帝国残党がネバタ砂漠よりさらに北のメルタの地で新たな国を興し、理由は不明だが、何らかの力によって急速に武力を整え始めているという。
「でも、メルタって生き物達にはすごく生き辛い所じゃないの?」
「噂通り、本当に物知りなお嬢ちゃんだ!あの角鬼どもに見習わせたいよ!」
大柄で、胸当てをつけたままの男が鉄のジョッキを机にドンドンと叩きつけながら言った。私は少し馬鹿にされているような響きを感じてむっとした。大柄な男の隣に座っていた物静かな男が、「お前にも見習わせたいね」と言いたげな表情で大柄な男を一瞥して、答える。
「その通りだ、娘。しかしそれは最近の研究で少し見方が変わってきている。」
「最近の研究って、どんな?」
「地相学研究だ。地相学によると、もともと世界には場所毎に地相というものがあり、生きるもの達は常にその場所の地相から影響を受けているらしい」
「私達もそうなの?ここにも、えっと、ちそう?…があるって事?影響ってどんな?」
私が一気に聞くと、物静かな男は少し俯き加減でゆっくりと煙草を吸い、同じようにゆっくりと吐いた。それから一呼吸おいて、答える。
「もちろんニンゲンも例外ではない。ニンゲンにも、その他の種族にも、生まれ持った地相との相性があり、その相性から大きく外れる地相を持つ場所では、生命力が弱り、繁栄する事が難しいらしい。それから、地相は魔法とも深く関係している。今まで未知だった魔法のエネルギーは、地相から得ているとされるのが最近の考えだ。この村付近は様々な地相が交じり合っていて、何かが強く出ているといったわけでもないが、昔、帝国の首都があった場所は、闇と風の地相が強く出ている」
「じゃあ、メルタは?」
「ハルトゼイネルによると、闇の地相がとても強い、という見解だ。もともと、帝国より南にしか領土のなかった赤国には、闇の地相が殆どなく、今まではメルタの地は生きるものの住む場所ではないと言われていた。しかし、もともと闇の地相も持っていた帝国で暮していたものたちには、適応できる可能性がある。…そもそも、生きるもの達は自分達に合った地相でこそ生きるべきなのだから、このような侵略など…」
物静かな男がそこまで言うと、また大柄な男がジョッキでドンと机を叩いた。
「ハルトゼイネルのお偉いさん達の言う事は俺にはわからんね!お前もそんな簡単に信じるもんでもねぇぜ。だいたい大統領だってその話はまゆつばだって言ったらしいじゃねぇか。これからぁニンゲン様の時代だよ!どこだって生きて見せらぁ!」
大柄な男は一気にまくし立て、ジョッキをぐいっと傾けてから、首をかしげた。そして、うって変わって人懐っこい声で「かあさん、まだ酒ある?」と言い、台所に立っていた私の母が「もう酒樽ごとそっちに持ってってくださいな」とやけっぱちで言うのを聞くと、ニィッと笑って立ち上がった。
物静かな男は肩をすくめて、うんざりだ、というポーズをしたきり黙ってしまったので、私も少しの間、黙って料理をつついた。母は、兵隊さんといえども立派な客だと認識しているのか、机に並ぶ料理はいつもより豪華だ。ヌマイノシシのステーキなんて、いつの間に用意したんだろう。私は一時、臭み以外は言う事なしのステーキの味を堪能した。私の質問が止んだのを確認してか、昼間話した『怒りの上官』と、この中で一番偉いように見える立派な軍服を着た女性が小声で話し始めた。
「…隊長、自分は未だ今度の作戦に納得がいきません。何故、部下達に目的を不明瞭にせねばならないのでしょうか?」
「最終的な目標はメルタに興った新勢力の打倒、これに間違いはある?」
隊長と呼ばれた女性は、澄んだ、それでいて有無を言わせない圧力を持った不思議な声色をしていた。
「しかし、もしメルタの地で帝国残党が急速に発展した理由があれの存在によるものなら、兵士達の危険は本人達の予想よりも遥かに…」
「最初からみな、命を懸けている。それに、もしメルタの地であれを確認しても、あれを倒すだけ。兵士達にとっては、敵が何であろうと関係ない。頭は物事を知る必要があっても、手足が物事を知る必要はない」
「しかし…」
歯切れ悪く食い下がる昼間の上官に対して、隊長ははっきりとした声でそれを制する。
「それに、今回はあれがいる事も想定した戦力を揃えている。サルトル、そうでしょう?」
サルトルと呼ばれた物静かな男は、『怒りの上官』を横目でちらりと見てから話し始めた。私はヌマイノシシの肉を頬張ったまま、上目遣いでその様子を伺ったが、サルトルの表情は読み取れなかった。
「はい、私の考えうる最悪の事態を想定しての戦力です。メルタの地に相性の良い人外部隊の割合も高くしておりますゆえ、万一の場合にも我が軍が力で負ける事はありません」
「サルトル殿、しかし今回は緊急召集した兵達です。寄せ集め感も否めず…」
ここまで話したところで、大柄な男が笑顔で酒樽を担いで帰ってきた。『怒りの上官』と隊長はどちらからともなく席を立ち、外に出た。私は興味深々で聞き耳を立てていたので、無邪気な顔で酒樽を開けようとしている大柄な男を恨んだ。
大柄な男は、酒を一口呑んだ後、やっと状況を把握したのか、急に不安そうな声で、
「なあサルトル、俺もしかして隊長怒らせてる?かあさんに迷惑かけちまったからかな?隊長たちそれで出てったの?」
と聞いた。サルトルは、ふっ、と失笑し、煙草の煙をゆっくりと吐く。
「なあサルトル、どうやって謝ったら良いんだよ、隊長なんてべっぴんさんなのに怒るとすげぇ怖ぇんだ。もう次はねぇって言われてんだぞ。お前頭良いんだから教えろよ」
「…。あとで、『不味い酒を樽ごと持ってきてごめんなさい』って言ったらどうだ」
私は思わず吹きだしてしまった。隊長たちはそれを聞いたときに本当に怒るだろう。サルトルは、美味しく頂いてますよ、と言うように、ジョッキを軽く持ち上げて私に目配せし、にやりと笑った。大柄な男は、わけがわからないといった様子で、「旨ぇと思うけどなぁ…」なんてブツブツ言いながら、そわそわと窓に近づいて外の様子を伺おうとしていた。
次の日に、軍隊は意気揚々と北へ旅立っていったが、彼らはわずか一ヶ月でその数を10分の1以下に減らして村に帰ってきた。帰ってきた多くの人々が深く傷ついており、村は騒然となった。この時ばかりは村のみんなが協力して、負傷した兵士達を家に運び込み、必死に看病した。といっても、外部との交流のない小さい村に、確かな技術を持った医師も効果的な薬もあるはずはなく、どの家も、ただベッドに寝かせて包帯を巻き、薬草を煎じたスープを飲ませるぐらいの事しか出来なかった。
母は、昔も同じような事があったから慣れている、と言って、きびきびと周囲に指示を出しながら自分も働いた。私も母の指示で、水や包帯や塗り薬を家々に配り歩いたり、足に深い傷を負った兵士に肩を貸したり、彼らの血や膿に染まった布を洗ったりして、忙しく働いた。
私の家には、出発の前夜に話した上官達が集まったが、そこに、『怒りの上官』の姿はなく、残る三人も、大柄な男はかなりの重症、サルトルと隊長は軽症を負っていた。私は必死で大柄な男の看病をしたが、大柄な男はベッドに寝かされてすぐに意識を失ったきり、時折子供のようにうなされながらずっと眠っていた。
夜になると、村の外から、不気味な唸り声が断続的に響き始めた。唸り声は四方八方から聞こえてくるようだった。ずっと聞いているとふつふつと怒りが沸いて、胸がむかついてくるような、耐え難い唸り声。血の匂いに誘われたヌーティヌの群れが村を囲んでいる事は間違いなかった。
私は唸り声のせいで眠れず、眠れないならいっそ、と思い、大柄な男のベッドの横に腰かけ、時々、大柄な男の額に浮かんだ大粒の汗を拭いながら、助かりますように、と祈っていた。と、夜中を過ぎた頃に、隣の部屋で隊長とサルトルの話し声が聞こえ始めた。私はそれにそっと聞き耳を立てる。
「やはりマリスが絡んでいたか…」
「はい…。そこまでは予想出来ていながら…不甲斐ない…」
「しかしマリスがあれほど強大な魔力を持っているとは…」
「はい、それにあの姿が変容する魔獣…。剣で切りつければ、二度目には身体が剣を通さず、焼き落とそうとすれば、最初は燃えていてもすぐに燃えなくなる…。明らかに改造の加えられた生物です。まだ未完成のようでしたが、赤国にもあれほどの技術力は…」
「サルトル、これは完全な敗北よ。私は国に帰れば罰せられ、命はないわ…」
「隊長殿…、私も同じ立場です。しかし私達はこの現状を報告せねば…」
「いや、お前は国にとって失えない才能だから、罰は受けようとも、殺される事はない。デルフォイはあの傷では助からないだろう…。だが私はまだやらなければならない事がある。だからどうか、お前だけ帰って、私はメルタの地で死んだと伝えてくれないか…」
「隊長殿…」
私は息を潜めてずっと彼らの会話を聞いていたが、明け方にヌーティヌの唸り声が止んだ頃、強烈な疲れと眠気を感じ、いつの間にか大柄な男に覆いかぶさるようにして寝てしまっていた。
二人から盗み聞きした話によると、今回のメルタ侵攻は、赤軍側の完全な敗北で終わったようだった。ネバタ砂漠とメルタの地の境界線に陣を敷いた赤軍は、偵察部隊から、帝国の残党はマリスと呼ばれる強力な指導者を新たに得、多種族混成の国家として既に一定のレベルにまで到達しているという情報を得る。しかし、出発前にサルトルが言った通り、単純な武力では赤軍が勝っている。そう判断した隊長は全軍に突撃を命令。赤軍とマリス軍は、メルタの地の入り口、キルリアンにて激突する。最初こそ、赤軍の突風隊とマリス軍のゴブリン部隊が正面からぶつかり、赤軍の思惑通りの総力戦の様相を呈していたが、赤軍がゴブリン部隊を壊滅させて勢いをつけ、大きく敵陣に踏み込んだ時、戦場の上空に、空を切り裂くようなマリスの呪言が響き渡り、戦況は一変した。
――汝ら 御霊の怨嗟響く鬨を聴け
弐眼の愚か者よ 彼の地を見よ
彼の地こそ新たなる闇の聖域なり
生者は弁えよ 弁えぬなら 血の祝杯となるがいい――
その呪言の効果は絶大で、マリス率いる闇の軍勢は一人一人が恐ろしい怪力を発揮するようになり、赤軍は一気に押し返される。戦況が不利と見るや、赤軍の人外部隊は四散し退却。中には赤軍を裏切るものまで出始める。赤軍の僧兵達の治癒魔法も、メルタの地ではまったく役に立たず、マリスの呪言が響き渡ってから、戦況がほぼマリス軍の勝利濃厚となり、隊長が退却の決断をするまで、30分もかからなかった。
その時点で半数以上の兵を失っていた赤軍は、退却戦でも敵陣に深く踏み込んでいた事が災いし、多くの兵を失った。(この時、『怒りの上官』の部隊はしんがりをつとめ、部隊の大半は死亡。混乱の中、上官自身も行方不明となってしまったらしい)そして、ようやくネバタ砂漠に逃げ込んだ時には、もはや無傷の兵士は一人もいなかったという。
それから村までの道のりでも、多くの兵が死んだ。傷ついた兵には辛すぎる砂漠。アリサドに入ってからは、ヌーティヌの群れに執拗に追い回され、四六時中あの唸り声を聞かされ、発狂してヌーティヌの群れに飛び込んだものもいた。
ヌーティヌたちは獲物を見つけると、群れで順番に唸り声をあげ、アリサドの荒野を渡るものの精神を侵して弱らせてから襲い掛かるが、死体を漁っている間だけは、唸り声が止む。
唸り声のせいで眠れず、共倒れを恐れた赤軍兵士達が、何とかしようと出した答えは、死んだものや、もはや助からないものを、後方に置いていく、という、凄惨なものだった…。
身体を揺さぶられて目が醒めた。というより、大柄な男がうなされ、暴れたことで身体が揺さぶられていた。私は寝ぼけていて、いつもの朝のようにのんびりと目をこすり、背伸びをしようとし、視界に大柄な男が映ったところで、昨日の事を思い出した。大柄な男は血を吐いて悶えている。私は慌てて母を呼びに行った。それから、今はどうでも良い事だが、私が珍しく心底、後悔した事としてここに書かせてもらいたい。初めて、しかも嫁入り前に男と一緒に寝てしまった。
私が母を起こしてベッドに戻ると、大柄な男の異変に気付いた隊長とサルトルもベッドの前に現れていた。大柄な男は意識を取り戻したようで、ぜいぜいと荒い息をはきながら母の方を見た。母はおびただしい量の吐血を手際良くふき取り、大柄な男の胸や腕に手を当て、難しい顔をした。
「アリ…ス…。アリスか…?」
と、大柄な男がうわごとのようにか細い声で言った。母は意味を掴めず、黙って大柄な男の手を握っていた。
「亡くなった妻の名だ」
後ろで様子を見ていた隊長が言った。私は一瞬、何の事かわからなかった。
「アリスはそいつの、…デルフォイの妻の名だ。病気で亡くなってしまったが、デルフォイは行軍中、ずっと、貴方の事を、妻にそっくりの美人だった。なんて言って騒いでいた。だから、少しの間、そうしてやっていてくれないか?」
隊長は節目がちになりながら続けた。いつもの威圧的な声ではなく、どこか湿ったような寂しい声だった。
「わかりました。…デルフォイ、私はここにいますよ」
母は力強い声で言い、デルフォイの手を握ったまま、自分の胸に当てた。
私はやっと、この人は助からない、という周りの空気を悟って、愕然とした。『怒りの上官』のような漠然とした死ではなく、確かな死がここに迫っている事に気付き、身体が震えた。
デルフォイは、しばらく目を閉じて黙っていたが、突然、くっく、と喉に何か引っかかったような低い声で笑い出し、言った。
「いや…。すまないね…。…すまない。アンタの事、かあさんなんて…呼んじゃって…。アンタの料理の味も、姿も、声も、何もかもそっくりで…懐かしかったんだ…。ホント。それで…俺…、見ず知らずの人に、かあさん、なんて…。くっ…。くっくっく…」
デルフォイはまたくっくと笑い、咳き込んだ。今まで聞いた事のない、暗くて重い響きの咳だった。私は脚の辺りから力が抜けていき、立っていられないような眩暈を感じた。
「いいえ、デルフォイ。悪くなんてないわ。恥ずかしい事でもない。私も夫を失ったからわかるの。私の事をアリスだと思っていいのよ」
母は泣いていた。私の父は私が幼い頃に亡くなっていたので、私は父がどんな人物だったのかを知らない。愛情は母から充分に受け取っていたし、母は自分の夫の話をほとんどしなかったので、この時の私に、母がどんな想いでその言葉を言ったのか知る術はなかった。
それきりデルフォイは静かになり、いよいよ、という空気が漂った時、私ははじけるようにデルフォイの身体に飛びついていた。今でも、その時の私を突き動かした感情がどんな種類のものであったのかはわからない。もしかしたら、デルフォイを亡き父と重ねたのかもしれない。
「輪廻を紡ぐ天使よ、ひとときの生を許したまえ、始原の園の統治者よ、今一度この者に慈悲を与えたまえ、汝の下に降りたたん、傷口を鬱ぐ淡き光!……輪廻を紡ぐ天使よ、ひとときの生を許したまえ、始原の園の統治者よ、今一度この者に慈悲を与えたまえ、汝の下に降りたたん、傷口を鬱ぐ淡き光!」
私は泣きじゃくりながら、デルフォイの身体にしがみつき、必死にいつか読んだ本に書いてあった魔法の詠唱文を唱えた。何度も、何度も、繰り返し。いくら抑えようとしても嗚咽が止まらず、情けない途切れ途切れの詠唱文が部屋に響いた。
デルフォイが、弱々しく私の頭に手を乗せた。
「…お嬢ちゃんは、本当に物知りだな…。でもそんなの良いんだよ。魔法ってのぁ…才能あるヤツが訓練してやっと使えるようになるんだぜ…。でも、お嬢ちゃんならいつか使えるようになるかもな…。ありがと…うな」
それでも私は詠唱を止めなかった。母が私の背中に余っていた方の手を置き、ゆっくりとさすった。嗚咽はいよいよ抑えられず、もはや自分が何を言っているのかもわからなくなった。
「ヒーリングか…。しかしそもそも光の地相の弱いこの地では、どんな術士でもその術式を完成させる事は…」
サルトルが静かに言ったが、私にはもう何も聞こえていなかった。
輪廻を紡ぐ天使よ、ひとときの生を許したまえ、始原の園の統治者よ、今一度この者に慈悲を与えたまえ、汝の下に降りたたん、傷口を鬱ぐ淡き光…。頭の上に乗せられたデルフォイの手のひらから力が徐々に失われるのを感じながら、私はひたすらに唱え続けた。
――輪廻を紡ぐ天使よ ひとときの生を許したまえ
始原の園の統治者よ 今一度この者に慈悲を与えたまえ
汝の下に降りたたん 傷口を鬱ぐ淡き光――
瞬間、淡く透き通った、瑠璃色の光がベッドを包んだ。
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座右の銘は憎まれ上手の不器用貧乏。
kisaraku.cute@hotmail.co.jp
極々たまにメッセもする。